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【 日本百観音・四国88ヶ所 】 | |||||||||||
西国三十三観音
近畿全域 畿内 『日本百観音』 |
【所在】最も古い歴史と伝統を持ち、近畿一円に広がるご詠歌発祥の観音札所
【開創】奈良時代の718年大和・長谷寺の徳道上人による。中興:花山上皇。 札所は和歌山の三重県寄りの那智勝浦から始まり、大阪、奈良、京都、兵庫、滋賀と近畿の広域に点在し、満願の33番札所は岐阜県となります。 奈良時代の718年大和・長谷寺の徳道上人によって開かれた後、次第にすたれていましたが、約270年後の平安時代(718+270=>988)に「西国札所中興の祖」と呼ばれる花山法皇が再興され、各札所のご詠歌を作られたと伝えられています。 (始めは「ご詠歌」ではなく「巡礼歌」と言っていた様です。) なお、この頃の西国三十三ヶ所には「西国」の文字は付かず、ただの「三十三ヶ所」「観音三十三所」「観音霊場三十三所」などと表記されていました。 「西国三十三ヶ所」の名称は坂東三十三ヶ所が出来た後の、(鎌倉幕府がある)東国から見た呼び名が広まった様です。 観音巡礼は始めは僧侶の修行として広まったのですが、室町時代後期になると一般の民衆にも深く浸透するようになり、江戸時代には各地で西国33観音の『写し霊場』『写し札所』が創られる程に広まりました。 | ||||||||||
坂東三十三観音
関東 坂東一円 『日本百観音』 |
【所在】鎌倉から始まり関東平野一円の広大な範囲に創られた西国33観音の写し札所
【開創】観音信仰に熱心だった源頼朝の鎌倉時代に開創 (源平の合戦で西上した東国の坂東武士たちが西国の札所を見聞したことがきっかけともなり) 源頼朝 の鎌倉時代に、関東でも西国三十三ヶ所と同じ観音巡礼をするために開創(3代将軍の実朝の代で成立)されたそうです。 西国観音に次いで古い歴史を持ち、札所は頼朝の鎌倉から始まり、神奈川、東京、埼玉、群馬、栃木、茨城と関東平野一円の広大な範囲に点在し、満願の33番札所は千葉県です。 (西国33観音霊場の最初の『写し霊場』とも言われます。) | ||||||||||
秩父三十四観音
埼玉県 武蔵国 『日本百観音』 |
【所在】埼玉県の旧武蔵国の秩父地域に創られた西国33観音の写し札所
【開創】鎌倉時代の文暦元年(1234年) 始めは33ヶ所でしたが後に1ヶ寺追加されて、西国(33)と坂東(33)と秩父(34)を合わせて『日本百観音』と言われています。 (庶民に観音信仰が高まった江戸時代には、江戸から関所を通らずにお参りできて、坂東33観音に比べて極く狭い範囲で全札所を巡拝できる秩父34観音は大いに賑わったそうです。) 埼玉名物1 埼玉名物2 秩父みやげ1 秩父みやげ2 | ||||||||||
四国八十八霊場
四国全域 南海道 |
【所在】弘法大師(774年-835年)の八十八の足跡を巡拝する四国霊場
【開創】弘法大師の入定(835)後に修行僧らが遍歴の旅を始めた事が原型とされる。 弘法大師に対する信仰が高まった江戸時代中期頃より、日本全国の人々が四国を訪れ、弘法大師ゆかりの地を巡るようになったそうです。 | ||||||||||
各地の札所ご詠歌集
霊場の中には室町時代やさらに鎌倉時代・平安時代に創設されたと言われる歴史ある観音霊場もあるようです。
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〔 北海道地方 〕
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北海道三十三観音
北海道 北海道 |
【所在】北海道地方に創られた観音札所
【開創】1913年(創設) 1985年(復興) 徳島生まれで事業に成功した資産家が、徳島から北海道に入植して困難な開拓に明け暮れる人たちの「心のよすが」を作りたいと、観音霊場の創設を決意されたそうです。 | ||||||||||
〔 東北地方1 (
青森・
岩手・
宮城
) 〕
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奥州三十三観音
東北 陸奥国 |
【所在】東北地方の旧陸奥国の岩手県~宮城県に創られた観音札所
【開創】開創は古く、平安時代の保安4年(1123)。 名取の旭という巫女が西国に倣い33ヶ所の観音札所を定めたと言われています。 重ね参りで顕かなご利益が授けられるとのことです。 | ||||||||||
青森県 ( 岩手 宮城 東北1 目次頁へ ) | |||||||||||
津軽三十三観音
青森県 陸奥国 |
【所在】青森県の旧陸奥国の津軽藩(弘前藩)に創られた観音札所
【開創】「津軽領三十三観音」を元に明治の中頃に復活 「青森ねぶた祭り」「弘前ねぷたまつり」でも知られる青森県の津軽地方です。 広義の津軽地方は、弘前市を中心にした南部の「中弘南黒地区」、五所川原市を中心とした北西部の「西北五地区」、青森市を中心とした北東部の「東青地区」の3つの地区で構成され、狭義の津軽地方は東青地区を「青森地方」と呼び津軽に含まないそうです。 太宰治の出生地の青森県北津軽郡金木村(現:五所川原市)は津軽の「西北五地区」になるのでしょうか。 | ||||||||||
津軽八十八霊場
青森県 陸奥国 |
【所在】青森県津軽地域で選定した弘法霊場
【開創】昭和初期 大正末期から昭和初期にかけて、中里町出身の尼が四国八十八霊場を順礼し、その感激と功徳を津軽の地にもと発願して八十八霊場を成就したそうです。 | ||||||||||
津軽領三十三観音
青森県 陸奥国 |
【所在】青森県の旧陸奥国の津軽藩に設定された観音札所
【開創】江戸時代の宝暦2年(1752) 現在の『津軽三十三観音』の元となった札所。 俗説では三代藩主津軽信義(1619~1655)が津軽統一時に死んだ武士や農民の供養の為に御詠歌を詠んだと言われています。 | ||||||||||
田名部海辺三十三観音
青森県 陸奥国 『下北(半島)三十三観音』 |
【所在】青森県の下北半島に創られた観音札所
【開創】江戸時代中期の1700年頃と言われる 『下北三十三観音』『下北半島三十三観音』 とも言われる。 イタコで知られた恐山霊場(日本三大霊場)や マグロで知られた大間漁港が在る 下北半島に創られた観音札所です。 | ||||||||||
七戸南部三十三観音
青森県 陸奥国 |
【所在】青森県の旧陸奥国の七戸藩、南部藩(盛岡藩)を中心とした地域に創られた観音札所
【開創】明治28年(1895)以前。 『南部三十三観音』の元となった観音札所といわれます。 現在は同じ青森県ですが津軽藩(弘前藩)と南部藩(盛岡藩)は元は別々の領地でしたので文化も風習も方言(津軽弁、南部弁)も違いました。 盛岡藩は岩手~下北半島の東北北部の東側を支配する大きな藩でしたが、明治維新で「反政府側」とされ、南部地方の北部が分割され青森県に統合されてしまったそうです。 | ||||||||||
南部三十三観音
青森県 陸奥国 |
【所在】青森県の旧陸奥国の七戸藩、南部藩(盛岡藩)を中心とした地域に創られた観音札所
【開創】明治28年(1895) 『七戸南部三十三観音』を元として昭和6年(1931)頃に『南部三十三観音』として再興された。 現在は同じ青森県ですが津軽藩(弘前藩)と南部藩(盛岡藩)は元は別々の領地でしたので文化も風習も方言(津軽弁、南部弁)も違いました。 盛岡藩は岩手~下北半島の東北北部の東側を支配する大きな藩でしたが、明治維新で「反政府側」とされ、南部地方の北部が分割され青森県に統合されてしまったそうです。 | ||||||||||
御城下(八戸)三十三観音
青森県 陸奥国 |
【所在】青森県の旧陸奥国の八戸藩(盛岡藩側)に創られた観音札所
【開創】明治30年(1897)。 1番札所来迎寺の恭岑上人の発願である事から『恭岑御城下三十三所』とも呼ばれる。 | ||||||||||
糠部(奥州南部)三十三観音
青森県 陸奥国 『南部百観音』 |
【所在】青森県・岩手県の旧陸奥国の南部藩(盛岡藩)の地域に創られた観音札所
【開創】戦国時代とも江戸時代とも言われる。 戦国時代に観光上人により33寺が設定されたと伝わるが、現在の札所設定が行われたのは江戸時代の守西上人によるといわれています。 (盛岡33観音と糠部33観音と当国33観音に番外の御堂村北上観世音をあわせて『南部百観音』と呼ばれます。) | ||||||||||
岩手県 ( 青森 宮城 東北1 目次頁へ ) | |||||||||||
当国(和賀・稗貫・志和)三十三観音
岩手県 陸奥国(陸中国) 岩手県 陸奥国(陸中国) 『南部百観音』 |
【所在】岩手県の旧陸奥国(陸中国)の旧和賀・稗貫・志和地域に創られた観音札所
【開創】江戸時代の安永7年(1778年)の巡礼記あり (盛岡33観音と糠部33観音と当国33観音に番外の御堂村北上観世音をあわせて『南部百観音』と呼ばれます。) | ||||||||||
盛岡三十三観音
岩手県 陸奥国(陸中国) 『南部百観音』 |
【所在】岩手県の旧陸奥国(陸中国)の盛岡藩に創られた観音札所
【開創】江戸時代の安政7年(1861年)頃 安土桃山時代に勢力を広げた南部氏が盛岡城を築いて以後、盛岡は城下町として発達して、明治以後は岩手県の県庁所在地となりました。 (盛岡33観音と糠部33観音と当国33観音に番外の御堂村北上観世音をあわせて『南部百観音』と呼ばれます。) | ||||||||||
陸奥盛府三十三観音
岩手県 陸奥国(陸中国) |
【所在】岩手県の旧陸奥国(陸中国)の盛岡藩に創られた観音札所
【開創】江戸時代の嘉永元年(1848)以前 「盛岡三十三観音」とは別の寺院です。 この地域は南部藩=>盛岡藩=>盛岡県=>岩手県へと変わり、中世には「盛府」とも呼ばれたそうです。 | ||||||||||
江刺七観音
岩手県 陸奥国(陸中国) |
【所在】岩手県の旧陸奥国(陸中国)の江刺郡(奥州市、北上市)の七観音札所。
【開創】平安時代初期の嘉祥3(850)年。 開創は古く、平安時代の公家社会で広まった六観音 ・七観音 信仰とともに、平安時代初期に慈覚大師によって始まったとされている。 | ||||||||||
江刺三十三観音
岩手県 陸奥国(陸中国) |
【所在】岩手県の旧陸奥国(陸中国)の江刺郡(現奥州市、北上市)に創られた観音札所
【開創】江戸時代 平安時代からの「江刺七観音」が発展し「江刺三十三観音」となった様です。 江刺郡は奥州藤原氏初代清衡が、平泉に本拠を移す前に前半生を過ごした地だそうです。 | ||||||||||
奥州昭和三十三観音
岩手県 陸奥国(陸中国) |
【所在】岩手県内の奥州市や北上市、胆沢郡の地域の寺院で創られた観音札所
【開創】昭和12年(1937) 東北地方の福島、宮城、岩手3県にまたがる『奥州三十三観音』とは異なり、昭和以降に岩手県内の奥州市や北上市、胆沢郡の地域の寺院で創られた観音霊場。 | ||||||||||
遠野七観音
岩手県 陸奥国(陸中国) |
【所在】岩手県の旧陸奥国(陸中国)の遠野地域の七観音札所
【開創】平安時代の嘉祥年間(848~851年)といわれ、古い七観音信仰の歴史を持つ 遠野は河童や座敷童子等の「民話の里」としても知られています。 | ||||||||||
稗貫和賀二郡三十四観音
岩手県 陸奥国(陸中国) |
【所在】岩手県の旧陸奥国(陸中国)の(現花巻市付近の)稗貫郡と和賀郡の観音札所
【開創】江戸時代の寛政十年(1798)以前。明治28年に再興。 花巻市は岩手県の中西部に位置する市で、宮沢賢治生誕の地です。 | ||||||||||
西磐井三十三観音
岩手県 陸奥国(陸中国) |
【所在】岩手県の旧陸奥国(陸中国)の西磐井郡辺りに創られた観音札所
【開創】江戸時代の元文2年(1737) 龍澤寺乗州和尚と永泉寺然栄法印が開創とのことです。 【西磐井郡三十三所】【西岩井西国三十三観音】とも呼ばれます。 | ||||||||||
気仙三十三観音
岩手県 陸奥国(陸前国) |
【所在】岩手県の旧陸奥国(陸前国)の気仙郡に創られた観音札所
【開創】江戸時代の享保3年(1718年) 東日本大震災の津波被害からの霊場の再興に地域の人が尽力されたそうです。 | ||||||||||
岩手三十三観音
岩手県 陸奥国(陸中国) |
【所在】岩手県内に創られた観音札所
【開創】平成15年10月 岩手県は日本の都道府県としては、北海道に次いで2番目に広いそうです。 江戸時代の幕藩時代には、現在の岩手県は南部藩の北部と伊達藩の南部に当てはまる様です。 | ||||||||||
三陸三十三観音
宮城県 陸奥国(陸前国) |
【所在】三陸海岸の宮城県松島から岩手県宮古に創られた観音札所
【開創】平成3年開創、平成10年再編 三陸とは陸前国,陸中国,陸奥国の 3国の総称だそうです。 三陸海岸は、青森県南東部の鮫角(八戸市)から宮城県東部の万石浦(石巻市)までの総延長600Km余りの海岸ですが、 三陸観音は三陸海岸の内の松島から宮古までの約370Km間の寺院で創られた観音札所です。 | ||||||||||
宮城県 ( 青森 岩手 東北1 目次頁へ ) | |||||||||||
牡鹿三十三観音
宮城県 陸奥国(陸前国) |
【所在】宮城県の旧陸奥国(陸前国)の牡鹿半島にある観音札所
【開創】江戸中期。寛延四年(1751)の納札あり 牡鹿半島(おしかはんとう)は宮城県北東部の太平洋に向かって南東に突きだした半島。 | ||||||||||
加美郡三十三観音
宮城県 陸奥国(陸前国) |
【所在】宮城県の旧陸奥国(陸前国)の加美郡に創られた観音札所
【開創】江戸時代の宝暦年間(1751~64)以前。 加美郡は宮城県の北西部に位置します。 | ||||||||||
黒川郡三十三観音
宮城県 陸奥国(陸前国) |
【所在】宮城県の旧陸奥国(陸前国)の旧黒川郡に創られた観音札所
【開創】江戸時代末期 黒川郡は宮城県中部の仙台のやや北側に位置します。 | ||||||||||
柴田郡三十三観音
宮城県 陸奥国(陸前国) |
【所在】宮城県の旧陸奥国(陸前国)の柴田郡辺りに創られた観音札所
【開創】江戸時代 柴田郡は宮城県南部の仙南圏に位置します。 | ||||||||||
仙台三十三観音
宮城県 陸奥国(陸前国) |
【所在】宮城県の旧陸奥国(陸前国)の仙台藩内に創られた観音札所
【開創】江戸時代の元禄年間(1688~1704年) 仙台藩第4代藩主の伊達綱村が33札所を選定したとのことです。 仙台藩初代藩主の伊達政宗も観音仏像を念持仏として信心していたそうです。 | ||||||||||
仙台七観音
宮城県 陸奥国(陸前国) |
【所在】宮城県仙台市にある7つのお寺を巡る観音霊場
【開創】平成10年(1998年) (平安時代に盛んだった七観音信仰とは別の様です。) | ||||||||||
宮城郡三十三観音
宮城県 陸奥国(陸前国) |
【所在】宮城県の旧陸奥国(陸前国)の柴田・名取・宮城の旧3郡の観音札所
【開創】江戸中期の宝暦3年(1763) 仙台藩初代藩主の伊達政宗が慶長6年(1601)に宮城郡内の仙台に居城を築き本拠としたそうです。 | ||||||||||
伊具郡三十三観音
宮城県 陸奥国(磐城国) |
【所在】宮城県の旧陸奥国(磐城国)の伊具郡に創られた観音札所
【開創】天保年間(1830~44)。明治末期に二十四番西円寺住職再興 宮城県の南端で福島県に隣接しています。 幕末時点では陸奥国に所属していたが、明治の初期に伊具郡と刈田郡は磐城国の所属となったそうです。 | ||||||||||
刈田新西国三十三観音
宮城県 陸奥国(磐城国) |
【所在】宮城県の旧陸奥国(磐城国)の刈田郡に創られた西国33観音の写し札所
【開創】昭和九年(1934)。33番延命寺の大僧正開創。 幕末時点では陸奥国に所属していたが、明治の初期に伊具郡と刈田郡は磐城国の所属となったそうです。 | ||||||||||
〔 東北地方2 (
秋田・
山形・
福島
) 〕
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秋田県 ( 山形 福島 東北2 目次頁へ ) | |||||||||||
秋田三十三観音
秋田県 出羽国(羽後国) |
【所在】秋田県に創られた観音札所
【開創】昭和59年(1984)再創 『秋田六郡三十三観音』をもとに昭和59年(1984)再創。 夏には有名な「竿燈まつり」があります。冬は「きりたんぽ鍋」。春は角館の武家屋敷の桜。 | ||||||||||
能代三十三観音
秋田県 出羽国(羽後国) |
【所在】現在の秋田県能代市に創られた観音札所
【開創】江戸時代:享和年間(1801~04) 日本書紀に登場する秋田県の地名では、 (現在の「秋田」である)「飽田:あきた」(「齶田:あぎた」)と (現在の「能代」である)「渟代:ぬしろ」(「野代:のしろ」)が有り、 「渟代:ぬしろ」と言う地名は1300年以上も続いたそうで、 「能代」は「秋田」と並んで県内でも歴史ある地名です。 また、宝永元年(1704年)には「野代」が現在の「能代」に改称したという記録があるそうです。 | ||||||||||
秋田六郡三十三観音
秋田県 出羽国(羽後国) |
【所在】旧出羽国(羽後国)の六郡(雄勝,平鹿,仙北,河辺,秋田,山本)地域の観音札所
【開創】江戸時代の享保18年頃。一説には平安時代の開創 昭和に開創された『秋田33観音霊場』の元になった霊場です。 確たる証拠はありませんが、一説には平安時代の長久年間(1040年頃)の開創とも伝えられています。 | ||||||||||
男鹿三十三観音
秋田県 出羽国(羽後国) |
【所在】秋田県西部の日本海に突き出た男鹿半島にある観音札所
【開創】平成 ナマハゲで有名な秋田県の男鹿半島です。 | ||||||||||
鹿角三十三観音
秋田県 出羽国(羽後国) |
【所在】秋田県の旧出羽国(羽後国)の鹿角地域(花輪、尾去沢他)周辺にある観音札所
【開創】江戸中期の明和四年(1767)ころ 一番札所の長福寺の祖峯和尚が発願し開創されたとの事です。 鹿角地方は縄文時代の遺跡が多く残る地域で「大湯環状列石」等多くの遺跡が確認されているそうです。 古くは「上津野」と表記し、江戸時代までは南部盛岡藩が統治していたそうです。 | ||||||||||
仙北三十三観音
秋田県 出羽国(羽後国) |
【所在】秋田県の旧出羽国(羽後国)の仙北郡に創られた観音札所
【開創】江戸中期の宝永2年(1705) 仙北郡は秋田県の中東部にある郡です。(仙北は古文書では「山北」「仙福」「仙乏」との表記もあり) 平安末期には奥六郡(胆沢,江刺,和賀,紫波,稗貫,岩手)とともに奥州藤原氏が支配したそうです。 | ||||||||||
比内三十三観音
秋田県 出羽国(羽後国) |
【所在】秋田県の旧出羽国(羽後国)の比内郡(現大館市、北秋田市の一部)に創られた観音札所。
【開創】江戸中期。宝暦13年(1763)以前 『秋田郡比内三十三所』とも呼ばれます。 宝暦13年(1763)の「秋田郡比内三十三所順礼記」が存在するとの事です。 大館市周辺は縄文時代の遺跡が多く残る地域で、多くの遺跡が確認されているそうです。 8 - 9世紀ころまでは蝦夷の地であり、当時火内(アイヌ語の「ピ・ナイ:小石が多い沢」または「ピン・ナイ:細く深い谷川」)と呼ばれ、大和朝廷の勢力の及ばない地域だったそうです。 | ||||||||||
山形県 ( 秋田 福島 東北2 目次頁へ ) | |||||||||||
庄内三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) 『出羽百観音』 |
【所在】山形県の日本海沿岸の庄内地域に創られた観音札所
【開創】江戸時代の正徳四年(1714年) 羽黒山荒沢寺の大恵東水和尚が西国三十三観音霊場の御土砂を勧請して、鶴岡・藤島周辺に三十三ヶ所の観音霊場を定めたのが始まりと言われています。 (古くから山岳信仰の盛んな出羽三山をのぞむ最上33観音と庄内33観音と置賜33観音と羽黒山最古寺院でこの庄内33観音主番の荒沢寺と合わせて『出羽百観音』と呼ばれます。) 「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」 江戸時代に出羽国の庄内地方では、そんな唄が流行ったそうです。 酒田の豪商:本間光丘は浪速や江戸の米相場で大成功して、藩にも何度も大金を寄付して、『酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵米雨が降る。』とも唄われたそうで、今でも株やFXの売買のテクニカル手法として使われる「酒田五法」「ローソク足」は豪商:本間光丘の考案だそうです。 「おしん」を見て、山形=寒村と思っていた人もあるかと思いますが、県内に創られた三十三観音霊場の数は日本中で群を抜いて1位です。その理由の一つはもしかしたら「本間様」かなと想像しています。 出羽三山(でわさんざん)とは山形県の村山地方・庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山(鳥海山)の総称です。 出羽三山の始まりは飛鳥時代の崇峻天皇の第三皇子の蜂子皇子(562-641)は、蘇我馬子による父:崇峻天皇の暗殺の際に、馬子から逃れるため宮中を脱出して丹後国から現在の山形県鶴岡市由良に着き、海岸から八咫烏(やたがらす)に導かれて、羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開山したと伝えられています。 飛鳥時代の和銅5年(712)に出羽国が建国した時点で月山、羽黒山、鳥海山(葉山)はこの地に住む人々から深い信仰を受けていたそうですので、出羽三山の山岳信仰は非常に深く古い歴史があると思われます。 | ||||||||||
最上三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) 『出羽百観音』 |
【所在】山形県(旧出羽国)の内陸北部の旧最上郡に創られた観音札所
【開創】開創が室町時代までさかのぼる、国内有数の歴史を持つ霊場。 室町時代にこの地を治めていた最上家が、領地の安定の為に札所創設に尽力したとも言われます。 1番札所の『鈴立山 若松寺』は 「目出た 目出たーのー 若松さーまーよー」の歌で知られた、 縁結びの『若松観音』です。 (古くから山岳信仰の盛んな出羽三山をのぞむ最上33観音と庄内33観音と置賜33観音と羽黒山最古寺院の荒沢寺と合わせて『出羽百観音』と呼ばれます。) | ||||||||||
置賜三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) 『出羽百観音』 |
【所在】山形県(旧出羽国)の内陸南部の米沢盆地がある置賜地域に創られた観音札所
【開創】安土桃山時代と伝わる 置賜地方は四方を奥羽山脈や吾妻連峰、飯豊連峰などに囲まれ、南は福島県会津に接する豪雪地帯です。 中心は米沢藩で、貧困にあえいでいた藩の財政のたてなおしに尽した名君の上杉鷹山の名は今も語られています。 (古くから山岳信仰の盛んな出羽三山をのぞむ最上33観音と庄内33観音と置賜33観音と羽黒山最古寺院の荒沢寺と合わせて『出羽百観音』と呼ばれます。) | ||||||||||
庄内平和三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県の日本海沿岸の庄内平野に創られた33の観音札所
【開創】開創は昭和23年。 太平洋戦争後に戦没者追悼と世界平和祈念の為に創設されたそうです。 | ||||||||||
庄内平和108観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県の日本海沿岸の庄内平野に創られた108の観音札所
【開創】開創は昭和年代。 太平洋戦争後に戦没者追悼と世界平和祈念の為に創設されたそうです。 | ||||||||||
新庄地廻三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県(旧出羽国)内陸北部の旧最上郡の新庄藩を中心とした地域に創られた観音札所
【開創】江戸中期の享保年間(1716~36) 新庄藩は最上郡の中心部で、江戸時代は新庄城の城下町として、羽州街道の宿場町として栄えたそうです。 | ||||||||||
尾花沢三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) 『尾花沢大石田三十三観音』 |
【所在】山形県内の尾花沢地域に創られた観音札所
【開創】明治26年開創とされているが詳細は不明(もっと古い?) 平成元年(1989)再興、平成5年(1993)再開創。 『尾花沢大石田三十三観音』『地廻り三十三所』とも呼ばれるそうです。 | ||||||||||
天童三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県の旧天童藩内に創られた観音札所
【開創】江戸時代:嘉永三年(1850) 「天童=将棋の駒」「将棋と言えば山形県天童市」 将棋の駒の生産量では(昭和の初めに大阪を抜き)現在では全国の約9割を占める日本一の産地になったそうです。 竜王戦の対局も天童市内の旅館で毎年行われるそうです。 | ||||||||||
(最上)小国三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県最上郡の小国郷に創られた観音札所
【開創】江戸時代:嘉永二年(1849) 山形県に小国三十三観音は二つあり、 この札所は最上郡最上町にある小国三十三観音です。 | ||||||||||
(置賜)小国三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県西置賜郡の小国町に創られた観音札所
【開創】江戸時代 山形県に小国三十三観音は二つあり、 この札所は置賜郡にある小国三十三観音です。 | ||||||||||
東根七観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県東根市に創られた七観音札所
【開創】昭和2年 「さくらんぼ」でも知られた東根です。 | ||||||||||
鶴城三十三観音
山形県 羽前国 |
【所在】山形県の旧庄内藩の鶴ヶ岡城下に創られた観音札所
【開創】江戸時代 この「鶴城」は白虎隊の会津「鶴ヶ城」の事では無く、 山形県鶴岡市にあった鶴ヶ岡城(つるがおかじょう)の事だそうです。 鶴ヶ岡城は鎌倉時代初期に築城されて、江戸時代は庄内藩の藩庁として使われたそうです。 川中島で知られた越後の上杉家も会津や米沢に移る前の一時期に鶴ヶ岡城を手中に収めていたそうで、 家老の直江兼続が城の改修を行った記録があるそうです。 | ||||||||||
北郡三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県(旧出羽国)の内陸中部と内陸北部の一部の北郡地域に創られた観音札所
【開創】明治二十六年(1893) 山形県の内陸中部の村山地方の内の最北部の4市町と最上地方(内陸北部)の地域を古来より北郡(きたぐん)と呼ばれているそうです | ||||||||||
五百川三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県(旧出羽国)の内陸中部の旧村山郡の五百川峡谷(朝日町付近)に創られた観音札所。
【開創】江戸時代 最上川で最も狭い五百川峡谷は、川の水の大きな浄化力を持ち、最上川の心臓部と呼ばれています。白く波の立つ瀬は、水に酸素を充分に溶け込ませて色々な生物を活発にします。上流部で汚れた水を蘇生させる五百川峡谷がなかったら、現在の最上川の水質は維持できていなかったそうです。 | ||||||||||
富並三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県(旧出羽国)の内陸中部の旧村山郡の富並地区に創られた観音札所
【開創】江戸時代 富並地区の大谷地沼のじゅんさいは、全国的にも数少ない天然のじゅんさいで、昔ながらの箱舟に乗って行われ、江戸時代から採れたと言われています。 | ||||||||||
東通り三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県(旧出羽国)の内陸中部の旧村山郡の羽州街道東側の東根地区に創られた観音札所
【開創】明治二十七年(1894) 13番常楽寺ほか五ヶ寺が発願。 東根市は「さくらんぼ」でも有名です。 | ||||||||||
寒河江三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県(旧出羽国)の内陸中部の旧村山郡西部の寒河江郷に創られた観音札所
【開創】文政五年(1822)大沼五郎兵衛発願。 大沼五郎兵衛発願。 旧石器時代から人々が住んでいたと言われます。 寒河江は「さくらんぼ」も名産です。 | ||||||||||
寒河江西根長岡三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県(旧出羽国)の内陸中部の旧村山郡西部の寒河江郷に創られた観音札所。
【開創】不明ながら昭和58年発行のご詠歌本あり。 『長岡三十三所』とも言われます。 | ||||||||||
谷地三十四観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県(旧出羽国)の内陸中部の旧村山郡の旧谷地郷に創られた観音札所
【開創】江戸時代後期の文化十二年(1815)。 旧谷地郷は現在の寒河江市・西村山郡河北町付近で、 最上川の船着場として栄えて米の取引が盛んで、かつては全国一の草履表の集散地だったそうです。 廃寺が多く後に「谷地三十三観音」として復興 | ||||||||||
谷地三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県(旧出羽国)の内陸中部の旧村山郡の旧谷地郷に創られた観音札所
【開創】「谷地三十四所」を昭和になって再編し復興した。 旧谷地郷は現在の寒河江市・西村山郡河北町付近で、 最上川の船着場として栄えて米の取引が盛んで、かつては全国一の草履表の集散地だった。 | ||||||||||
山形三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県(旧出羽国)の内陸中部の旧村山郡の山形藩に創られた観音札所。
【開創】江戸時代中期の明和四年(1767) 『山形城下三十三所』とも言われる。 現山形市が県庁所在地となっている山形藩は、 鎌倉以来の名家の最上氏が関ヶ原の論功行賞で大封を得て山形藩ができるが、 最上家の改易後は領主の転封が異常に激しかったそうです。 | ||||||||||
山形川西三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県(旧出羽国)の内陸中部の旧村山郡の最上川・須川西岸に創られた観音札所
【開創】江戸時代後期:文政六年(1823)。 須川西岸の東村山郡は山形県の中部にある郡で、山辺町、中山町からなります。 | ||||||||||
大郷三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県(旧出羽国)の内陸中部の旧山形藩の大郷地区に創られた観音札所
【開創】江戸時代末期の嘉永元年(1848) 大郷地区は、山形市の北西部に位置しており、山辺町と中山町に隣接しています。 | ||||||||||
東山三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県(旧出羽国)の内陸中部の旧山形藩の高瀬地区に創られた観音札所。
【開創】江戸時代初期の安政五年(1859)以前 丹波屋初代木村久兵衛発願。 『高瀬三十三所』とも呼ぶそうです。 (福島県会津の東山温泉とは別地域です。) | ||||||||||
東山三十四観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県(旧出羽国)の内陸中部の旧山形藩の旧東沢村地区に創られた観音札所。
【開創】江戸時代安永八年(1779) 丹波屋二代目木村久兵衛開創。『東沢三十四所』とも呼ぶそうです。 (福島県会津の東山温泉とは別地域です。) | ||||||||||
上山三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県(旧出羽国)の内陸中部の山形藩と内陸南部の米沢藩の間の上山藩に創られた観音札所。
【開創】江戸時代の享保18年(1733) 33番称念寺の快全上人の発願、開創。 『上ノ山領内三十三所』とも呼ばれます。 (城下町・宿場町・温泉街の3つを兼ね備えた地域は全国的にも珍しいと言われます) | ||||||||||
屋代郷三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県(旧出羽国)の内陸南部の置賜地方の東置賜郡辺りに創られた観音札所
【開創】江戸時代 寛延3年(1750)以前 屋代村は過去に山形県東置賜郡にあった村。現在の高畠町北西部にあたる。 | ||||||||||
米沢三十三観音
山形県 出羽国(羽前国) |
【所在】山形県(旧出羽国)の内陸南部の置賜地方の旧米沢藩に創られた観音札所。
【開創】江戸時代初期に於千の方の開創と伝わる。 【羽州米沢三十三所】【出羽国米沢三十三所】とも呼ばれます。 越後の上杉謙信の没後、上杉家は秀吉の信任厚く、会津に120万石を与えられていたが、家康に敵対した関ヶ原合戦後は米沢30万石に減封され幕末維新まで続いそうです。 貧困にあえいでいた藩の財政のたてなおしに尽した名君の上杉鷹山の名は今も語られています。 | ||||||||||
福島県 ( 秋田 山形 東北2 目次頁へ ) | |||||||||||
会津三十三観音
福島県 陸奥国(岩代国) |
【所在】福島県の旧会津藩に創られた観音札所
【開創】江戸時代:1643年 保科正之(1611~1673)が会津の領主となった際に会津領内に三十三ヶ所の霊場を選んだのが始まりといわれています。 会津藩は陸奥国(後の岩代国)の会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた120万石の大きな藩だったが、明治政府の「朝敵」となった後は没収され、青森の斗南藩に移封などの後に、旧二本松藩や旧磐城平藩などと共に福島県に入れられたそうです。 | ||||||||||
(会津)若松三十三観音
福島県 陸奥国(岩代国) |
【所在】福島県の旧会津藩の鶴ヶ城の城下に創られた観音札所
【開創】江戸時代:宝永年間(1704~1711年) (会津)若松三十三観音は会津藩の鶴ヶ城の城下(現在の会津若松市)に創られた三十三寺の観音札所です。 『町廻り三十三観音』『城廻り三十三観音』『城下三十三観音』とも呼ばれるそうです。 「目出た 目出たーのー 若松さーまーよー」の民謡の花笠音頭で知られた、 縁結びの『若松観音』と呼ばれるお寺は、会津ではなく、 山形県天童市にある『最上三十三観音』第1番札所の『鈴立山 若松寺』です。 | ||||||||||
(会津)猪苗代三十三観音
福島県 陸奥国(岩代国) |
【所在】福島県の旧会津藩の猪苗代地域に創られた観音札所
【開創】江戸時代以前。明治19年に再興。 江戸時代には多くの民衆がご詠歌を唱え、巡拝したそうです。 雄大な会津磐梯山や広大な猪苗代湖を眺めながら巡っていたのでしょうか。 | ||||||||||
(奥会津)御蔵入三十三観音
福島県 陸奥国(岩代国) |
【所在】福島県の旧会津藩の奥会津の御蔵入地域に創られた観音札所
【開創】江戸時代の元禄11年(1698年) 『奥会津三十三観音霊場』または「南山御蔵入領三十三観音霊場」とも呼ばれるそうです。 | ||||||||||
安積三十三観音
福島県 陸奥国(岩代国) |
【所在】福島県中通りの旧安積郡(現郡山市)に創られた観音札所
【開創】昭和初期。 現在の福島県の中央部に位置した。 安積郡は、陸奥国=>(養老年間)石背国=>(平安~江戸)陸奥国=>(明治)岩代国に所属したそうです。 | ||||||||||
安達三十三観音
福島県 陸奥国(岩代国) |
【所在】福島県中通りの旧安達郡周辺に創られた観音札所
【開創】江戸時代文政9年(1826)以前 幕末時点では陸奥国に所属し、二本松藩領であったそうです。 | ||||||||||
小手三十三観音
福島県 陸奥国(岩代国) |
【所在】福島県中通りの旧伊達郡にあった小手村に創られた観音札所。
【開創】江戸時代。 小手村は現在の伊達市の月舘町および川俣町にあたる様です。 | ||||||||||
信達三十三観音
福島県 陸奥国(岩代国) 『信達百観音』 |
【所在】福島県中通り北部を占める信達地方(信夫郡および伊達郡)の西国観音写し札所。
【開創】江戸時代初期 福島県中通りの信夫郡と伊達郡と合わせた地域を「信達」と呼ぶそうです。 (『信達西国33観音』『信達坂東33観音』『信達秩父34観音』を合わせて『信達百観音』となるそうです。) | ||||||||||
信達坂東三十三観音
福島県 陸奥国(岩代国) 『信達百観音』 |
【所在】福島県中通り北部を占める信達地方(信夫郡および伊達郡)に創られた坂東33観音写し札所
【開創】江戸時代 福島県中通りの信夫郡と伊達郡と合わせた地域を「信達」と呼ぶそうです。 (『信達西国33観音』『信達坂東33観音』『信達秩父34観音』を合わせて『信達百観音』となるそうです。) | ||||||||||
信達秩父三十三観音
福島県 陸奥国(岩代国) 『信達百観音』 |
【所在】福島県中通り北部を占める信達地方(信夫郡および伊達郡)の秩父34観音写し札所。
【開創】江戸時代の文化四年(1817) 福島県中通りの信夫郡と伊達郡と合わせた地域を「信達」と呼ぶそうです。 (『信達西国33観音』『信達坂東33観音』『信達秩父34観音』を合わせて『信達百観音』となるそうです。) | ||||||||||
信夫三十三観音
福島県 陸奥国(岩代国) |
【所在】福島県中通りの旧信夫郡(現在は福島市)に創られた観音札所
【開創】江戸時代 福島市のシンボル信夫山は、熊野、羽黒、羽山の三山からなり、出羽三山の羽黒、月山、湯殿の三神社がまつられ、古来から信仰の山とされ、「御山(おやま)」と呼ばれてきたそうです。 | ||||||||||
信夫新西国三十三観音
福島県 陸奥国(岩代国) |
【所在】福島県中通りの福島市に創られた西国33観音の写し札所
【開創】『信夫三十三観音』を昭和4年(1929)に再興 小さい頃、もろ差しの「信夫山」という力士を見た記憶があるのですが、こちらの出身の方のようです。 | ||||||||||
仙道三十三観音
福島県 陸奥国(岩代国) |
【所在】福島県の昔は仙道(山道)と呼ばれていた中通りに創られた観音札所
【開創】江戸時代の正徳6年(1716)頃には既に存在した。 江戸時代の中御門天皇の正徳6年(1716)頃には『仙道観音巡礼案内』が出来ており、霊場巡りが存在したとのことです。 | ||||||||||
伊達三十三観音
福島県 陸奥国(岩代国) |
【所在】福島県中通りの伊達市周辺に創られた観音札所
【開創】昭和12年(1937) 伊達市は西端部を阿武隈川に、東端部を阿武隈高地にはさまれた福島盆地の一部です。 北海道にも伊達市があり、どちらも伊達政宗の伊達家と関係のある市名だそうですが、 福島県の伊達市は奥州の伊達氏の発祥の地だそうです。 | ||||||||||
田村三十三観音
福島県 陸奥国(磐城国) |
【所在】福島県中通りの旧田村郡に創られた観音札所
【開創】江戸中期の元禄5年(1692) 福島県の中部から東部にある郡。三春町、小野町からなります。 | ||||||||||
田村姓司三十三観音
福島県 陸奥国(磐城国) |
【所在】福島県中通りの旧田村郡に創られた観音札所
【開創】江戸中期の享保十年(1725) 上記の『田村三十三観音』と重複している寺がありますが、ご詠歌が(1寺以外は)異なるので、別の霊場として扱いました。 | ||||||||||
磐城三十三観音
福島県 陸奥国(磐城国) |
【所在】福島県浜通りの旧陸奥国(旧磐城国)に創られた観音札所
【開創】江戸時代の永正15年(1518) 磐城国は現在の福島県浜通り、福島県中通り南部、宮城県南部に当たります。 | ||||||||||
奥相(相馬)三十三観音
福島県 陸奥国(磐城国) |
【所在】福島県浜通りの旧陸奥国(旧磐城国)の奥相馬周辺に創られた観音札所。
【開創】江戸時代の生徳年間(1711-1716) 陸奥国を始め日本中には昔から縄文人が住んでいた事が知られていますが、 福島県相馬郡の三貫地貝塚から出土した縄文人2人の歯髄からのY染色体(YAP+)のDNA解析に国立科学博物館が2016年に成功し、日本人(YAP遺伝子あり)と中国・朝鮮人(YAP遺伝子なし)とは赤の他人で、チベットや中近東の人の方がYAP遺伝子は日本人に近い事が解明されたそうです。 | ||||||||||
宇多郷三十三観音
福島県 陸奥国(磐城国) |
【所在】福島県浜通り北部の旧宇多郡宇多郷(現在の相馬市内)に創られた観音札所。
【開創】資料は不明ながらも江戸時代開創と思われる。 『奥相三十三観音』をもとに設定とのことです。 相馬野馬追や五穀豊穣を祈る相馬宇多郷神楽舞でも知られる地域です。 | ||||||||||
札所集-目次 | |||||||||||
〔 関東地方1 (
茨城・
千葉・
栃木・
群馬
) 〕
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坂東三十三観音
関東 坂東一円 | 札所ご詠歌集TOP頁 に掲載しています。 | ||||||||||
茨城県 ( 千葉 栃木 群馬 関東1 目次頁へ ) | |||||||||||
常陸西国三十三観音
茨城県 常陸国 |
【所在】茨城県の旧常陸国に創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代の宝暦10年(1760)以前 現在の茨城県は昔の常陸の国と下総の国の一部から成り立っており。常陸と下総の境は鬼怒川が境だそうです。残りの下総、利根川より南の部分は千葉県になったそうです。 | ||||||||||
水戸(常陸)三十三観音
茨城県 常陸国 |
【所在】茨城県の旧常陸国の水戸藩に創られた観音札所
【開創】江戸時代の延享四年(1747) 延享四年(1747)とすると、水戸黄門の徳川光圀公(1628~1701)が亡くなられた後に札所が出来た様です。 | ||||||||||
行方郡坂東三十四観音
茨城県 常陸国 |
【所在】茨城県の旧常陸国の行方郡周辺(行方市、潮来市他)に創られた観音札所
【開創】江戸時代の慶応四年(1868)以前 開創は江戸時代と言われ、慶応四年(1868)の巡拝記が存在するそうです。 | ||||||||||
葛飾坂東三十三観音
茨城県 下総国 |
【所在】茨城県の旧下総国の葛飾郡(古河市を中心)に創られた坂東33観音写し札所
【開創】江戸時代 葛飾は古代からの地名で、現在の千葉県、東京都、埼玉県、茨城県にまたがる広い区域を示したようです。 17世紀頃、下総国葛飾郡と武蔵国葛飾郡に分割。 さらに1889年に以下の郡に分割。 (1)東京府内の南葛飾郡(葛西)、(2)千葉県内の東葛飾郡(東葛地域)、(3)茨城県内の西葛飾郡、(4)埼玉県内の北葛飾郡(広義の葛西)、(5)埼玉県内の中葛飾郡(広義の葛西) | ||||||||||
猿島坂東三十三観音
茨城県 下総国 |
【所在】茨城県、千葉県の旧下総国の猿島郡に創られた坂東33観音写し札所
【開創】江戸時代の享保年間(1716-1736) 下野国(今の栃木県)に生まれた雄弁上人が開創したとのことです。 猿島郡は茨城県の西部にあった旧下総国の郡です。 | ||||||||||
(下総)結城三十三観音
茨城県 下総国 『結城新坂東三十三観音』 |
【所在】茨城県の旧下総国の結城郡近辺に創られた坂東33観音写し札所
【開創】江戸時代 下総国(しもうさ)は現在の茨城県(常陸国、下総国)の一部と千葉県(下総国、上総国、安房国)の一部になりますが 結城郡はその茨城県側で、現在の茨城県結城市の付近です。 | ||||||||||
千葉県 ( 茨城 栃木 群馬 関東1 目次頁へ ) | |||||||||||
下総三十三観音
千葉県 下総国 |
【所在】千葉県の旧下総国に創られた西国33観音写し札所
【開創】江戸時代 下総国(しもうさ)は現在の茨城県(常陸国、下総国)の一部と千葉県(下総国、上総国、安房国)の一部になります。 上総国(かずさ)は現在の千葉県の中部になります。 | ||||||||||
行徳三十三観音
千葉県 下総国 |
【所在】千葉県の旧下総国葛飾郡の行徳地域に創られた観音札所
【開創】江戸時代の元禄3年(1690年) 現在の千葉県市川市の南部、江戸川放水路以南の地域にある観音札所。 江戸時代の開創の後廃ったが、昭和59年(1984年)に再興されたそうです。 | ||||||||||
上総国三十四観音
千葉県 上総国 |
【所在】千葉県の旧上総国に創られた観音札所
【開創】 江戸時代 上総国は現在の千葉県の中央部に位置します。 千葉県の南部は安房国です。 | ||||||||||
新上総国三十三観音
千葉県 上総国 |
【所在】千葉県の旧上総国の地域内に新しく創られた観音霊場
【開創】 平成8年 上総国は現在の千葉県の中央部に位置します。 | ||||||||||
安房三十四観音
千葉県 安房国 (安房国札三十四観音) |
【所在】千葉県の旧安房国に創られた観音札所
【開創】開創は古く 鎌倉時代が開創のはじまりと伝わる 鎌倉時代にこの地を訪れた僧が観音さまを祀る寺を選び、霊場と定め、詠歌を納めたのが開創のはじまりといわれています。 安房国は現在の千葉県の南部に位置します。 | ||||||||||
安房郡札三十三観音
千葉県 安房国 |
【所在】千葉県の旧安房国の安房郡に創られた観音札所
【開創】 江戸初期 辰歳に開帳することから【安房郡札辰歳観音】とも呼ばれます。 旧安房郡の館山市に30ヶ所、南房総市に3ヶ所の札所です。 | ||||||||||
長狭三十三観音
千葉県 安房国 |
【所在】千葉県の旧安房国の長狭郡に創られた観音札所
【開創】江戸時代の享保16年以前、午年開帳 千葉県の房総半島を一周する安房三十四観音札所(鎌倉時代に成立)が民衆に定着した後、観音信仰が広まった江戸初期に、長狭平野に新たに設けられた観音札所です。 12年毎の午年に御本尊を開帳するそうです。 | ||||||||||
(上総)周淮郡三十四観音
千葉県 上総国 |
【所在】千葉県の旧上総国の周淮郡に創られた観音札所
【開創】江戸時代 周淮郡(すえぐん)は、千葉県の旧上総国にあった郡。概ね小糸川流域に存在したそうです。 周淮郡三十四観音のご詠歌は 小糸作礼三十三観音の1番札所から34札所と同じです。 | ||||||||||
(上総)小糸作礼三十三観音
千葉県 上総国 |
【所在】千葉県の旧上総国の君津郡小糸町に創られた観音札所
【開創】江戸時代 小糸町(こいとまち)とは千葉県君津郡にかつて存在した町で、現在の君津市の中部にあたる所だそうです。 作礼(さらい)とは仏菩薩や長上、あるいは寺塔に礼拝する事だそうです。 1番札所から34札所のご詠歌は周淮三十四観音と同じです。 | ||||||||||
(上総)西望陀三十三観音
千葉県 上総国 |
【所在】千葉県の旧上総国の望陀郡に創られた観音札所
【開創】江戸時代:文化9年(1812) 望陀郡(もうだぐん)は、千葉県(上総国)にあった郡。小櫃川流域を中心とする地域に存在した。 | ||||||||||
(上総)天羽作札観音
千葉県 上総国 |
【所在】千葉県の旧上総国の天羽(あまは)郡に創られた46寺の観音札所
【開創】江戸時代 天羽(あまは)とは上総国の天羽郡(現在は富津市付近)の事です。 作礼(さらい)とは仏菩薩や長上、あるいは寺塔に礼拝する事だそうです。 46寺の『天羽作札観音』とは別に37寺の『天羽作札三十三観音』が存在します。 | ||||||||||
(上総)天羽作札三十三観音
千葉県 上総国 |
【所在】千葉県の旧上総国の天羽(あまは)郡に創られた観音札所
【開創】江戸時代 天羽(あまは)とは上総国の天羽郡(現在は富津市付近)の事です。 作礼(さらい)とは仏菩薩や長上、あるいは寺塔に礼拝する事だそうです。 三十三観音ですが実際は37寺院あります。 | ||||||||||
(上総)小櫃作四十観音
千葉県 上総国 |
【所在】上総国望陀郡の小櫃地域に創られた観音札所
【開創】江戸時代:文化9年(1812) 『小櫃』とは千葉県を流れ東京湾に注ぐ小櫃川(おびつがわ)に沿った地域で、上総国望陀郡に小櫃村が存在しました。 『作』とは作礼の『作』と思われます。作礼(さらい)とは仏菩薩や長上、あるいは寺塔に礼拝する事だそうです。 四十観音です。小櫃作三十五観音とは別の札所です。 | ||||||||||
(上総)小櫃作三十五観音
千葉県 上総国 |
【所在】上総国望陀郡の小櫃地域に創られた35観音札所
【開創】江戸時代 『小櫃』とは千葉県を流れ東京湾に注ぐ小櫃川(おびつがわ)に沿った地域で、上総国望陀郡に小櫃村が存在しました。 『作』とは作礼の『作』と思われます。作礼(さらい)とは仏菩薩や長上、あるいは寺塔に礼拝する事だそうです。 三十五観音です。小櫃作四十観音とは別の札所です。 | ||||||||||
栃木県 ( 茨城 千葉 群馬 関東1 目次頁へ ) | |||||||||||
下野三十三観音
栃木県 下野国 『下野百観音』 |
【所在】栃木県の旧下野国に創られた観音札所。
【開創】江戸時代の末期 『下野坂東三十三観音』とも呼ばれます。 下野国は別名:下毛野国(しもつけぬのくに)です。 元々、毛野国が上毛野国と下毛野国に分かれ、上毛野国が略されて上野国(こうずけのくに)に、下毛野国が略されて下野国(しもつけのくに)になったそうです。 (【下野西国33】と【下野坂東33】と【下野秩父34】を合わせて『下野百観音』と呼ばれます。) | ||||||||||
下野西国三十三観音
栃木県 下野国 『下野百観音』 |
【所在】栃木県内の旧下野国に創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代の宝永年間(1704~1711) (【下野西国33】と【下野坂東33】と【下野秩父34】を合わせて『下野百観音』と呼ばれます。) | ||||||||||
下野秩父三十四観音
栃木県 下野国 『下野百観音』 |
【所在】栃木県内の旧下野国に創られた秩父34観音の写し札所
【開創】江戸時代の寛延年間(1748~1750) (【下野西国33】と【下野坂東33】と【下野秩父34】を合わせて『下野百観音』と呼ばれます。) | ||||||||||
新下野三十三観音
栃木県 下野国 |
【所在】栃木県の旧下野国(しもつけ)に創られた観音札所
【開創】明治時代 栃木県の全域に渡って創られた観音札所です。 | ||||||||||
足利坂東三十三観音
栃木県 下野国 |
【所在】栃木県の旧下野国の足利郡付近に創られた坂東33観音写し札所
【開創】江戸時代の宝永六年(1709) 宝暦四年(1754)の御詠歌集が存在するそうです。 足利郡は栃木県南西部に位置し、もと宿場町。足利氏発祥の地だそうです。 足利氏は源義家の孫、義康が下野国足利荘を本拠として称した氏だそうです。 | ||||||||||
昭和足利坂東三十三観音
栃木県 下野国 |
【所在】栃木県足利市近辺に創られた坂東33観音写し札所
【開創】足利坂東三十三観音(旧)を昭和12年(1937)に再編し開創した。 足利市は栃木県南西部に位置します。 | ||||||||||
那須三十三観音
栃木県 下野国 |
【所在】栃木県の旧下野国の那須郡に創られた観音札所
【開創】江戸時代の天和2年(1682)以前 那須御用邸やリゾート地、温泉等で知られる那須です。 | ||||||||||
都賀郡三十三観音
栃木県 下野国 |
【所在】栃木県の旧下野国の都賀郡(つがぐん)に創られた観音札所
【開創】不明ながら江戸時代と思われる 都賀郡は栃木県(下野国)西部にあった郡です。 | ||||||||||
佐野坂東三十三観音
栃木県 下野国 『佐野百観音』 |
【所在】栃木県の旧下野国の佐野藩に創られた坂東33観音の写し札所
【開創】江戸時代の元禄11年(1698年) 雲国法師(本源雲国)が『坂東33観音霊場』に倣い、近在寺院に呼びかけ作った霊場と伝わります。 (佐野西国33観音と佐野坂東33観音と佐野秩父34観音をあわせて『佐野百観音』と呼ばれます。) | ||||||||||
佐野西国三十三観音
栃木県 下野国 『佐野百観音』 |
【所在】栃木県の旧下野国の佐野藩に創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代の宝永~正徳(1704~1716)頃 (佐野西国33観音と佐野坂東33観音と佐野秩父34観音をあわせて『佐野百観音』と呼ばれます。) | ||||||||||
佐野秩父三十四観音
栃木県 下野国 『佐野百観音』 |
【所在】栃木県の旧下野国の佐野藩に創られた秩父34観音の写し札所
【開創】江戸時代の宝永~正徳(1704~1716)頃 (佐野西国33観音と佐野坂東33観音と佐野秩父34観音をあわせて『佐野百観音』と呼ばれます。) | ||||||||||
石裂三十三観音
栃木県 下野国 |
【所在】栃木県の旧下野国の鹿沼藩の石裂(おざく)地域に創られた観音札所
【開創】江戸時代の宝暦五年(1755) 大干ばつや諸病大流行から民衆を救うために10番宝蔵院の雷山法師が宝暦五年に開創。 | ||||||||||
粕尾三十三観音
栃木県 下野国 |
【所在】栃木県の旧下野国鹿沼藩の粕尾地域に創られた観音札所
【開創】戦国時代の天文二十二年(1553)とも江戸時代の宝永七年(1710)とも伝わる 戦国時代の天文二十二年(1553)に粕尾村の村民の高橋氏が村の一か所に観音像を祀り、 江戸時代の宝永七年(1710)に村民の入沢氏が粕尾村全村に札所を設立されたそうです。 | ||||||||||
芳賀西国三十三観音
栃木県 下野国 『芳賀百観音』 |
【所在】栃木県の旧下野国の芳賀郡に創られた西国33観音の写し札所
【開創】大正時代以降 (【芳賀西国33】と【芳賀坂東33】と【芳賀秩父34】を合わせて『芳賀百観音』と呼ばれます。) | ||||||||||
芳賀坂東三十三観音
栃木県 下野国 『芳賀百観音』 |
【所在】栃木県の旧下野国の芳賀郡に創られた坂東33観音写し札所
【開創】大正時代以降 (【芳賀西国33】と【芳賀坂東33】と【芳賀秩父34】を合わせて『芳賀百観音』と呼ばれます。) | ||||||||||
芳賀秩父三十四観音
栃木県 下野国 |
【所在】栃木県の旧下野国の芳賀郡に創られた秩父34観音の写し札所
【開創】大正時代以降 (【芳賀西国33】と【芳賀坂東33】と【芳賀秩父34】を合わせて『芳賀百観音』と呼ばれます。) | ||||||||||
陸奥下野百観音霊場
陸奥下野東34札所 陸奥下野南33札所 陸奥下野西33札所 福島県 陸奥国 栃木県 下野国 |
【所在】福島県(旧陸奥国)と栃木県(旧下野国)にまたがる地域に創られた観音札所
【開創】江戸時代の天和二年(1682) 「陸奥下野東三十四観音」 「陸奥下野南三十三観音」 「陸奥下野西三十三観音」 の100寺を『陸奥下野百観音』と呼ぶそうです。 那須郡の大金久左衛門らが巡礼したと伝えられています。 名前は陸奥下野百観音ですが、陸奥国の部は下野国に接する福島県白河市の5寺のみで、他は全て下野国北部地域のお寺で構成された百観音です。 | ||||||||||
両野三十三観音
群馬県 上野国 栃木県 下野国 |
【所在】現在の群馬・栃木(旧上野国、下野国)にまたがる地域に創られた観音札所
【開創】宝暦4年(1754) 【西国移両野三十三観音】とも呼ばれる。 下野国からは栃木県足利市の26寺、上野国からは群馬県太田市の3寺と 群馬県邑楽郡の6寺の比較的狭い範囲で選ばれた札所の様です。 | ||||||||||
群馬県 ( 茨城 千葉 栃木 関東1 目次頁へ ) | |||||||||||
上野国三十四観音
群馬県 上野国 |
【所在】群馬県の旧上野国の西上州地域(高崎、富岡、安中他)に創られた観音札所
【開創】歴史は非常に古く、平安時代の長和3年(1014)の開創縁起が伝わる 文暦元年(1234)開創の縁起もあるそうです。 上野国は別名:上毛野国(こうずけぬのくに)です。 元々、毛野国が上毛野国と下毛野国に分かれ、上毛野国が略されて上野国(こうずけのくに)に、下毛野国が略されて下野国(しもつけのくに)になったそうです。 毛野国には古代から人が住んでいた事が解っており、 群馬県みどり市の岩宿遺跡で、縄文時代(1万6000年前~3000年前)より前の3万年前に 、加工した石器(磨製石器)が使われていた跡が見つかっているそうです。 | ||||||||||
新上州三十三観音
群馬県 上野国 |
【所在】群馬県内に創られた観音札所
【開創】 平成11年(1999年) 上野国=上州 に新に創られた観音札所 | ||||||||||
東上州三十三観音
群馬県 上野国 |
【所在】群馬県の旧上野国の東上州地域(邑楽郡、館林市他)に創られた観音札所
【開創】江戸時代の宝永5年(1708年) 札所は邑楽郡、館林市、太田市、桐生市などの東毛地区とも呼ばれる地域に創られています。 | ||||||||||
吾妻三十三観音
群馬県 上野国 |
【所在】群馬県の旧上野国の北西部の吾妻郡に創られた観音札所
【開創】江戸時代の元禄三年(1690)に旧吾妻三十三観音を再興したといわれます。 伝えられているところでは、旧吾妻三十三観音は古い歴史を持ち、平安末期の永延2年(988)に花山法皇が熊野権現のお告げにより創られたそうです。 | ||||||||||
群馬郡三十三観音
群馬県 上野国 |
【所在】群馬県の旧上野国の群馬郡に創られた観音札所。
【開創】江戸時代中期 【群馬三十三観音】とも呼ばれます。 | ||||||||||
上野三郡三十三観音
群馬県 上野国 『吉井・藤岡・甘楽三十三観音』 『上野三郡坂東三十三観音』 |
【所在】群馬県の旧上野国の旧多胡郡・緑野郡・甘楽郡の三郡に創られた観音札所
【開創】江戸時代の明和六年(1769) 上野国と下野国は大昔は同じ毛野国(けのくに)でした。 それが「上」と「下」に分かれて上毛野国(かみつ けのくに)と下毛野国(しもつ けのくに)に分かれたそうです。 その後、大化の改新の頃の律令制(700年頃)で国名は2文字にする事が決まり、上野国(かみつけのくに)と下野国(しもつけのくに)となったそうです。 なお州名で呼ぶと、上野国は上州ですが、下野国は野州です。 『吉井・藤岡・甘楽三十三観音』と呼ばれる事も多い様です。 | ||||||||||
東上州新田秩父三十四観音
群馬県 上野国 |
【所在】群馬県の旧上野国の東上州地域(邑楽郡、館林市他)に創られた秩父34観音の写し札所
【開創】江戸時代の宝暦3年(1753) 上州の新田郡(にったごおり)と聞くと、何やら耳覚えがおるような・・、 あの「生国は上州新田郡三日月村の木枯し紋次郎』です。 新田郡三日月村は現在の群馬県太田市にあたるそうで、村おこしか『紋次郎記念館』まで建てられているそうです。 | ||||||||||
上毛佐波郡三十四観音
群馬県 上野国 |
【所在】群馬県の旧上野(こうずけ)国の旧佐波郡に創られた観音札所
【開創】明治29年頃 上野国と下野国は大昔は同じ毛野国(けのくに)でした。 それが「上」と「下」に分かれて上毛野国(かみつ けのくに)と下毛野国(しもつ けのくに)に分かれた後、 国名を2文字にする事が決まり、正式名は上野国(かみつけのくに)と下野国(しもつけのくに)となりましたが。 上毛や南毛などの「毛」を使う呼び名も未だ生きている様です。 | ||||||||||
南毛三十三観音
群馬県 上野国 |
【所在】群馬県の旧毛野国南部の南毛地域(多野郡、藤岡市他)に創られた観音札所。
【開創】 昭和57年(1982) 【南毛霊場多野藤岡三十三観音】とも呼ばれます。 | ||||||||||
新選高崎三十三観音
群馬県 上野国 |
【所在】群馬県の高崎市内に創られた観音札所。
【開創】 昭和55年(1980) 【高崎三十三観音】とも呼ばれるそうです。 | ||||||||||
西勢多三十三観音
群馬県 上野国 |
【所在】群馬県の旧上野国の勢多郡西部に創設された観音札所
【開創】江戸時代 【勢多郡西部三十三観音】【赤城西麓西勢多三十三観音】 とも呼ばれます。 | ||||||||||
沼田坂東三十三観音
群馬県 上野国 |
【所在】群馬県の旧上野国の北上州の沼田藩に創られた坂東33観音写し札所
【開創】江戸時代中期の明和四年(1767) 尾瀬へのアクセスコースとしても知られる沼田市は、群馬県北部の市で北毛(北上州)(上野国の北側)の中心都市です。 | ||||||||||
沼田横堂三十三観音
群馬県 上野国 |
【所在】群馬県の旧上野国の北上州の沼田藩に創られた観音札所
【開創】江戸時代前期の元和元年(1615) 尾瀬へのアクセスコースとしても知られる沼田市は、群馬県北部の市で北毛(北上州)(上野国の北側)の中心都市です。 | ||||||||||
三原郷三十四観音
群馬県 上野国 |
【所在】群馬県の旧上野国の吾妻郡の三原郷地域に創られた観音札所
【開創】江戸時代初期 開創当時の札所は天明3年(1783)浅間山噴火によりほとんど残っていないそうです。 八ッ場ダムによる水没地域の札所もあるそうです。 | ||||||||||
山中領西国三十三観音
群馬県 上野国 |
【所在】群馬県の旧上野国の天領の山中領に創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代中期 上野国の天領の山中領は信州・武州と接する山間地帯にあり、 現在の群馬県多野郡上野村にあたります。 確か、日航機墜落事故も群馬県多野郡上野村の御巣鷹山でした。 | ||||||||||
両野三十三観音
群馬県 上野国 栃木県 下野国 |
【所在】現在の群馬・栃木(旧上野国、下野国)にまたがる地域に創られた観音札所
【開創】江戸時代の宝暦4年(1754) 【西国移両野三十三観音】とも呼ばれる。 下野国からは栃木県足利市の26寺、上野国からは群馬県太田市の3寺と 群馬県邑楽郡の6寺の比較的狭い範囲で選ばれた札所の様です。 | ||||||||||
札所集-目次 | |||||||||||
〔 関東地方2 (
埼玉・
東京・
神奈川
) 〕
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埼玉県 ( 東京 神奈川 関東2 目次頁へ ) | |||||||||||
秩父三十四観音
埼玉県 武蔵国 | 札所ご詠歌集TOP頁 に掲載しています。 | ||||||||||
武蔵国三十三観音
埼玉県 武蔵国 東京都 武蔵国 |
【所在】埼玉県・東京都の旧武蔵国に創られた観音札所
【開創】江戸時代の元禄10年(1697年) 武蔵国は東京都、埼玉県と神奈川県北東部を含む大きな国で、 江戸は家康が江戸幕府を開いた後は大繁栄をして,江戸時代後期には人口が100万人だったといわれます。 | ||||||||||
武蔵野三十三観音
埼玉県 武蔵国 東京都 武蔵国 |
【所在】埼玉県・東京都の武蔵野と呼ばれる地域の観音札所
【開創】昭和15年(1940) 武蔵野の定義は、広辞苑によれば「埼玉県川越以南、東京都府中までの間に拡がる地域」であり、また広義には「武蔵国全部」を指すこともあるとされます。 | ||||||||||
足立坂東三十三観音
埼玉県 武蔵国 東京都 武蔵国 |
【所在】埼玉県・東京都にあった旧武蔵国足立郡に創られた坂東33観音写し札所
【開創】江戸時代の宝永二年(1705)。 午年開帳 12年毎の午年に御本尊を開帳するそうです。 「忍領西国33観音霊場」+「忍秩父34観音霊場」+「足立坂東33観音霊場」で100観音霊場を形成するそうです。 旧武蔵国にあった足立郡は現在の埼玉県と東京都足立区(全域)や北区、板橋区の一部を含む大きな郡でした。 その内の埼玉県の大宮以南に創られた観音札所です。 | ||||||||||
足立坂東(北部)三十三観音
埼玉県 武蔵国 |
【所在】埼玉県・東京都にあった旧武蔵国足立郡の内の大宮以北に創られた坂東33観音写し札所
【開創】江戸時代の元禄15年(1702年) 旧武蔵国にあった足立郡は現在の埼玉県と東京都足立区(全域)や北区、板橋区の一部を含む大きな郡でした。 その内の埼玉県の大宮以北に創られた観音札所です。 | ||||||||||
入比坂東三十三観音
埼玉県 武蔵国 |
【所在】埼玉県の旧武蔵国の入間郡・比企郡に創られた坂東33観音の写し札所
【開創】江戸時代の享保年間(1716-36) 入比とは旧武蔵国の入間郡・比企郡を合わせた地域だそうです。 | ||||||||||
忍領西国三十三観音
埼玉県 武蔵国 |
【所在】埼玉県の旧武蔵国の忍領地域に創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代の元録2年(1689) 日本三大水攻めで知られた忍城のあった埼玉県旧忍領地域の写し霊場です。『忍領33観音霊場』とも呼ばれています。 「忍領西国33観音霊場」+「忍秩父34観音霊場」+「足立坂東33観音霊場」で100観音霊場を形成するそうです。 (「日本三大水攻め」とは「備中の高松城」、「紀州の太田城」、この「忍城」です。いずれも攻めた方は秀吉軍。ちなみに忍城の水攻めは失敗で、降伏しない内に(作った)堤防が決壊してしまったそうです。) | ||||||||||
忍秩父三十四観音
埼玉県 武蔵国 |
【所在】埼玉県の旧武蔵国の忍領地域に創られた秩父34観音の写し札所
【開創】江戸時代の元録2年(1689) 『忍34観音霊場』とも呼ばれています。 「忍領西国33観音霊場」+「忍秩父34観音霊場」+「足立坂東33観音霊場」で100観音霊場を形成するそうです。 | ||||||||||
高麗坂東三十三観音
埼玉県 武蔵国 |
【所在】埼玉県の旧武蔵国の高麗郡(飯能市、入間市他)に創られた坂東33観音写し札所
【開創】江戸時代の享保年間(1716-36) 高麗郡武蔵国にあった郡で今はありませんが、「こうらいぐん」ではなく「こまぐん」と読むそうです。 地名の由来はやはり渡来系でした。 | ||||||||||
児玉三十三観音
埼玉県 武蔵国 |
【所在】埼玉県の旧武蔵国の児玉郡(児玉町、美里町、本庄市他)に創られた観音札所
【開創】江戸時代の天明3年(1783)の浅間山大噴火供養のため創設 「児玉西国三十三観音霊場」とも呼ばれます。 | ||||||||||
埼玉新秩父三十四観音
埼玉県 武蔵国 |
【所在】埼玉県の旧武蔵国の埼玉郡に創られた秩父34観音の写し札所
【開創】開創年代などは不詳ながら、天明6年(1786)以前の創設と言われる。 (午年に開帳) 本物の『秩父34観音』は秩父郡にあるが、『埼玉新秩父三十四観音』は埼玉郡(現在のさいたま市)に創られた『秩父34観音』の写し札所 | ||||||||||
狭山三十三観音
埼玉県 武蔵国 |
【所在】埼玉県・東京都の旧武蔵国多摩郡の狭山地域に創られた観音札所
【開創】江戸時代の天明年間(1781-1789) 狭山地域は現埼玉県南西部に位置する。 | ||||||||||
(足立)新秩父三十四観音
埼玉県 武蔵国 |
【所在】旧武蔵国の足立郡の内の北にあたる埼玉県側に創られた秩父34観音の写し札所
【開創】 江戸時代の享保八年(1723) (午年に開帳) 【北足立新秩父三十四観音】とも呼ばれます。 | ||||||||||
比企西国三十三観音
埼玉県 武蔵国 |
【所在】埼玉県の旧武蔵国の比企郡に創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代中期の享保八年(1723) 比企郡は埼玉県の中央部分に位置する。 | ||||||||||
武州葛飾秩父三十四観音
埼玉県 武蔵国 |
【所在】埼玉県の旧武蔵国の葛飾郡に創られた秩父34観音の写し札所
【開創】江戸時代の明和五年(1768)以前 「葛飾」と聞くと寅さんの「葛飾柴又」の狭い範囲が思い浮かびますが 葛飾という地名は古代から存在した名で、東京府・埼玉県・千葉県・茨城県に存在しました。 旧国名で言うと「下総国」と「武蔵国」に葛飾郡が存在しました。 | ||||||||||
東京都 ( 埼玉 神奈川 関東2 目次頁へ ) | |||||||||||
葛西三十三観音
東京都 武蔵国 |
【所在】東京都の葛西を中心とした江戸に創られた観音札所
【開創】江戸時代中期の元禄年間(1688-1704) 葛西という地名は以下の葛飾の説明の内の(1)東京府内の南葛飾郡(葛西)である。 葛飾は古代からの地名で、現在の千葉県、東京都、埼玉県、茨城県にまたがる広い区域を示した。 17世紀頃、下総国葛飾郡と武蔵国葛飾郡に分割。 さらに1889年に以下の郡に分割。 (1)東京府内の南葛飾郡(葛西)、(2)千葉県内の東葛飾郡(東葛地域)、(3)茨城県内の西葛飾郡、(4)埼玉県内の北葛飾郡(広義の葛西)、(5)埼玉県内の中葛飾郡(広義の葛西) | ||||||||||
江都三十三観音
東京都 武蔵国 |
【所在】東京都の旧武蔵国の江戸中心部を巡る観音札所 (江都とは江戸の別称)
【開創】開創は古く、元禄年間開創とも言われ、江戸時代中期の享保二十年(1735)発行の書物に既に記載あり。 江都とは江戸の別称だそうです。 | ||||||||||
江戸三十三観音
東京都 武蔵国 |
【所在】東京都の旧武蔵国の江戸中心部を巡る観音札所
【開創】元禄年間開創とも言われ、江戸時代中期の享保二十年(1735)発行の書物に既に記載あり。 『江都三十三観音』と『江戸三十三観音』は同じ札所です。 | ||||||||||
上野王子駒込辺三十三観音
東京都 武蔵国 |
【所在】江戸の上野より王子駒込あたりに創られた西国の写し観音札所
【開創】江戸時代:安永年間(1772-1780) 霊場としての正式名称が存在しないか確認できない霊場です。 参拝記録や順路が多くの書物や標石に残されている事から人気のあった霊場だったと思われますが、 霊場会もまとめ役の寺院もなく、現在はまったく活動をしていない霊場の様です。 | ||||||||||
昭和新撰江戸三十三観音
東京都 武蔵国 |
【所在】東京都に創られた江戸三十三観音札所
【開創】昭和51年(1976年)に【江戸三十三観音】再編して開創した。 江戸時代の元禄年間開創の【江戸三十三観音】を昭和51年(1976年)に再編 | ||||||||||
世田谷三十三観音
東京都 武蔵国 |
【所在】東京都世田谷区内に創られた観音札所
【開創】昭和9年(1934) 東京の世田谷区内の観音札所ですが、霊場としての活動は殆どしていない様です。 | ||||||||||
山の手三十三観音
東京都 武蔵国 |
【所在】東京都の旧武蔵国の江戸中心部を巡る観音札所
【開創】江戸時代:享保年間(1716-1736)の後期頃 東京の山の手地区の観音菩薩を参詣する札所。 「山之手を三度めぐりて今ここに百観音と参り納る。」と3周巡りが記録に残されている程、 多くの参拝の記録が書物や標石に存在している様です。 | ||||||||||
北豊島三十三観音
東京都 武蔵国 |
【所在】東京都の豊島区、北区、板橋区に創られた観音札所
【開創】明治末期から大正期 北豊島三十三観音はかつての豊嶋郡(現在の豊島区、北区、板橋区)の寺院から成る観音札所ですが、 霊場としての活動は殆どしていない様です。 | ||||||||||
多摩川三十四観音
東京都 武蔵国 神奈川県 相模国 |
【所在】多摩川周辺の東京都、神奈川県に創られた観音札所
【開創】昭和8年 現在は多摩川より西は神奈川県、東は東京都と分けられていますが、 横浜市内の戸塚の山に「武相国境之木」があるそうです。 ですから、明治以前は横浜の戸塚の山で相模国と武蔵国が分けられていたそうです。 | ||||||||||
八王子三十三観音
東京都 武蔵国 |
【所在】東京都の旧武蔵国の八王子周辺に創られた観音札所
【開創】江戸時代の1760年頃以前 八王子は東京都の多摩地域南西部にある地域。 八王子とは本来は仏教用語で、八王子権現を奉る八王子神社が地名の由来だそうです。 | ||||||||||
秋川三十四観音
東京都 武蔵国 |
【所在】東京都の旧武蔵国多摩郡の秋川地域(現あきる野市近辺)に創られた観音札所
【開創】開創の縁起は不明ながら、江戸時代には既に開創。 江戸時代の安政2年(1855)に巡礼記録(戒巌和尚による順路記)があると伝えられます。 | ||||||||||
東京三十三観音
東京都 武蔵国 |
【所在】関東大震災の慰霊を目的として東京都に創られた観音霊場
【開創】 昭和7年4月(1932) 関東大震災の慰霊を目的として東京の23区の内の13区(品川区 、目黒区、港区、世田谷区、渋谷区、千代田区、中野区、新宿区、豊島区、文京区、荒川区、台東区、墨田区)の寺院で創られた霊場です。 現在も霊場としての活動が継続しているかどうか判りません。 | ||||||||||
神奈川県 ( 埼玉 東京 関東2 目次頁へ ) | |||||||||||
相模西国三十三観音
神奈川県 相模国 |
【所在】神奈川県の旧相模国の平塚市・秦野市・大磯・二宮の地域に創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代の延享元年(1745)。 12年毎の丑年に御本尊開帳されます。 | ||||||||||
鎌倉郡三十三観音
神奈川県 相模国 |
【所在】神奈川県の旧相模国の鎌倉郡内や横浜、藤沢、逗子にまで広がる観音札所
【開創】江戸時代中期の安永4年(1775) 明治の廃仏毀釈から残った6寺を中心として、大正・昭和になって鎌倉市内を一周する「鎌倉三十三観音」が再興された。 | ||||||||||
鎌倉三十三観音
神奈川県 相模国 |
【所在】神奈川県の鎌倉市内に創られた観音札所
【開創】江戸時代開創の「鎌倉郡三十三観音」から残った6寺を中心として昭和に再興 江戸時代開創の「鎌倉郡三十三観音」は鎌倉から横浜や藤沢、逗子にまで広がっていたが、 明治の廃仏毀釈から残った6寺を中心として、大正・昭和になって、新たに鎌倉市内を一周する「鎌倉三十三観音」が再興された。 | ||||||||||
武州金沢三十四観音
神奈川県 武蔵国 |
【所在】神奈川県横浜市の旧武蔵国の金沢文庫近辺に創られた観音札所
【開創】江戸時代の宝暦年間(1751-1764) 神奈川県は殆どの地域が旧相模の国ですが、横浜市の一部の金沢文庫の辺りは旧武蔵の国だったそうです。 | ||||||||||
旧小机領三十三観音
神奈川県 武蔵国 |
【所在】神奈川県の旧武蔵国の小机領(現横浜市・川崎市・町田市)に創られた観音札所
【開創】江戸時代の享保17年(1732年)。子年開帳 近隣の3人の和尚が札所寺を選定し、幕府に霊場開設の願いが出されたと伝えられます。 12年毎の子年に御本尊開帳をされることから『子年観音』とも呼ばれています。 | ||||||||||
准西国稲毛三十三観音
神奈川県 武蔵国 |
【所在】神奈川県・東京都の旧武蔵国橘樹郡の稲毛領近隣に創られた観音札所
【開創】江戸時代の宝暦4年(1754) 12年毎の午年に開帳されます。 | ||||||||||
武相卯歳四十八観音
神奈川県 相模国 |
【所在】埼玉県・神奈川県・東京都を含む旧武蔵国と旧相模国に創られた観音札所
【開創】江戸時代の宝暦9年(1759)。 卯歳開帳 武相卯歳観音霊場は武相の名前の通り、旧武蔵国と旧相模国にかけて開かれた観音札所です。武蔵と相模の境界沿いに札所があります。 12年毎の卯歳に御本尊開帳されます。4月1日から1ヶ月間、観音霊場巡りが始まり賑わうそうです。 (1822年に国学者の平田篤胤によって記された「勝五郎再生記聞」(前世を記憶していた勝五郎少年の「生まれ変わり」の史実)は時の天皇の耳にも入る程で、後に小泉八雲の訳により海外にも知られたそうです。) (日野市の高幡不動には、この勝五郎の前世の藤蔵のお墓が今もあるそうです。) | ||||||||||
相模新西国三十三観音
神奈川県 相模国 |
【所在】神奈川県の旧相模国の大磯、平塚、秦野辺りに創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代の延享元年(1744年) 旧相模国の別称である相州から、「相州新西国三十三観音霊場」とも呼ばれています | ||||||||||
准秩父三十四観音
神奈川県 相模国 |
【所在】神奈川県内で選ばれた秩父34観音写し札所
【開創】平成 神奈川県横浜市で20寺、川崎市で14寺が選ばれた秩父34観音写し札所です。 | ||||||||||
津久井三十三観音
神奈川県 相模国 |
【所在】神奈川県の旧相模国の北西部の津久井地域に創られた観音札所。
【開創】江戸時代の宝暦年間(1752~63) 現在は43観音で目標は100観音とのことです。 | ||||||||||
東海三十三観音
神奈川県 東京都 武蔵国 相模国 |
【所在】東海道沿いの東京都・神奈川県の一部に創られた観音札所
【開創】大正3年(1914) 「東海」とは東海地方の意味ではなく「東海道沿い」の事だそうです。 また、東海道とは言っても東京都と神奈川県の寺院のみで構成され、一番札所は横浜の總持寺です。 | ||||||||||
三浦三十三観音
神奈川県 相模国 |
【所在】神奈川県の旧相模国の三浦半島を一周する観音札所
【開創】鎌倉時代初期の建久三年(1192年)。 午年開帳 源義経の家臣・鈴木三郎重家が大飢饉に苦しむ人々を救おうと、三浦半島の33カ所の霊場を参拝し、その後人々が飢饉から救われたことに始まると伝えられます。 12年毎の午年に御本尊を開帳するそうです。 | ||||||||||
新三浦半島三十三観音
神奈川県 相模国 |
【所在】神奈川県の三浦半島に、関東大震災慰霊の為に創られた観音霊場
【開創】大正12年9月1日 関東大震災で亡くなった方の慰霊の為に創られた観音霊場です。 | ||||||||||
足柄三十三観音
神奈川県 相模国 |
【所在】神奈川県の(足柄峠のある)県西部に創られた観音札所
【開創】昭和初期 神奈川県西部の足柄地域の浄土宗の寺院のみで創られた観音霊場です。 | ||||||||||
横浜三十三観音
神奈川県 相模国 |
【所在】神奈川県横浜市に創られた観音札所
【開創】大正4年 日本を代表する横浜港がある神奈川県横浜市に創られました。 | ||||||||||
札所集-目次 | |||||||||||
〔 甲信越 (
山梨・
長野・
新潟
) 〕
| |||||||||||
山梨県 ( 長野 新潟 甲信越 目次頁へ ) | |||||||||||
甲斐国三十三観音
山梨県 甲斐国 |
【所在】山梨県の旧甲斐国に創られた観音札所
【開創】戦国時代初期の文明年間(1469~87)と伝わる 「甲斐の山々 陽に映えて われ出陣に 憂(うれ)いなし」 「おのおの馬は 飼いたるや 妻子(つまこ)につつが あらざるや あらざるや」 甲斐と言えば武田信玄。風林火山。 甲斐国三十三観音の開創は、 (室町時代の応仁の乱が終わり)戦国の時代が始まる文明年間(1469~87)ですので、 信玄公が生まれた年(1521)には「甲斐国三十三観音」は既に開創されていました。 (江戸時代に創られた観音霊場は数多くありますが)戦国時代以前に創られた観音霊場は珍しく、古い歴史があります。 この事からも甲斐国の人々の信仰心の深さが 窺えます。 また、鎌倉時代中期に始まった日蓮宗の総本山が甲斐国にある事も、昔からの人々の信仰心に影響を与えていたのかも知れません。 その様な環境からか、信玄公は仏教に関心が強く、観音菩薩像をお守りにしていた事が知られています。 また、出陣の際には1番札所の薬王寺で度々戦勝を祈願したと伝えられています。 甲斐国は律令制では五畿七道の内で東海道に属していますが、中山道の通る北部の地域が主要部です。 甲斐の国の名の由来は周囲を山に囲まれた峡(かい)の意味から来たそうで、古くは山梨、八代(やつしろ)、巨摩(こま)、都留(つる)の4つの郡から成ります。 このような峡(甲斐)の国は農耕には不向きな山地で、山を流れる川は急で氾濫しやすい為、信玄公は治水工事に特に力を注いだそうです。 | ||||||||||
武川筋三十三観音
山梨県 甲斐国 |
【所在】山梨県の旧甲斐国の北西部の武川筋と呼ばれる地域に創られた観音札所
【開創】 江戸時代の天保5年(1834)以前 武川筋は甲斐北西部の北巨摩郡(現北杜市)の地域を指す。 武川衆とは甲斐国の辺境武士団。 甲斐九筋(かいくすじ)と呼ばれ、甲斐国から他の国へ通じる道は9筋あり、それらはみな(日本武尊の東征で古来より知られた神社の)酒折宮(さかおりみや)を起点としています。 ◎甲斐国から駿河国(するが=静岡県)に通ずる道は (1)「若彦路(わかひこじ)」(甲斐九筋の内で最も古く、日本武尊が通った道と言われている。) (2)「右左口路(うばくちじ)」(=中道)(=中道往還:なかみちおうかん) (3)「河内路(かわうちじ)」(=駿州往還)(=東海道側からは甲州往還 と呼ばれる) ◎甲斐国から相模国(さがみ=神奈川県)に通ずる道は (4)「鎌倉(かまくら)街道」、 ◎甲斐国から武蔵国(むさし=東京都・埼玉県)に通ずる道は (5)「萩原口(はぎはらくち)」 (6)「雁坂口(かりさかくち)」 ◎甲斐国から信濃国(しなの=長野県)に通ずる道は (7)「穂坂路(ほさかじ)」 (8)「大門嶺口(だいもんとうげくち)」 (9)「逸見路(へみじ) 「○○往還」というのは、「○○との間を往き来する道」という意味だそうです。 | ||||||||||
(甲斐国)逸見筋三十三観音
山梨県 甲斐国 |
【所在】甲斐国の北巨摩郡の逸見筋に創られた観音札所
【開創】江戸時代 甲斐国北巨摩郡の「武川筋三十三観音」と「逸見筋三十三観音」と「塩川三十四観音」 を合わせて「北巨摩郡百観音」と呼ばれている。 逸見筋とは甲斐国から信濃国へ通じる3つの筋: 「穂坂路(ほさかじ)」「大門嶺口(だいもんとうげくち)」「逸見路(へみじ)」 の内の一つです。 | ||||||||||
(甲斐国)塩川筋三十四観音
山梨県 甲斐国 |
【所在】甲斐国の北巨摩郡の塩川筋に創られた観音札所
【開創】江戸時代の寛延元年(1748) 甲斐国北巨摩郡の「武川筋三十三観音」と「逸見筋三十三観音」と「塩川筋三十四観音」を合わせて「北巨摩郡百観音」と呼ばれている。 塩川は関東山地・金峰山に端を発し、山梨県北杜市を流下し富士川の上流部・釜無川へ合流する一級河川で、川名「塩川」の由来となっている塩味がする霊泉が湧き出ています。 このしょっぱい霊泉の存在は、江戸時代の地誌「甲斐国誌」にも「塩川ノ霊泉、塩川組ニアリ、冷泉ナリ」と記載されており、古くから知られていました。 | ||||||||||
甲府・府内三十四観音
山梨県 甲斐国 |
【所在】甲斐国の府内(甲府)に創られた観音札所
【開創】江戸時代の元禄8乙亥年(1695) 山梨県の県庁所在地の甲府市に創られた観音札所 | ||||||||||
(甲斐国)都留郡三十三観音
山梨県 甲斐国 |
【所在】甲斐国の都留郡全域に創られた観音札所
【開創】江戸時代の正徳4甲午年(1714) 都留郡とは甲斐四郡の内の甲斐東部の郡内地方にあたる。 明治になって都留郡は北都留郡、南都留郡に分割され、 昭和になって南都留郡の町村が合併して都留市が誕生した。 | ||||||||||
(甲斐国)都留郡(別札)三十三観音
山梨県 甲斐国 |
【所在】甲斐国の都留郡全域に創られたもう一つの観音札所
【開創】江戸時代以前の開創といわれる 甲斐国の都留郡に全く同名の「都留郡観音」が存在していた様子です。 | ||||||||||
(甲斐国)河内路三十四観音
山梨県 甲斐国 |
【所在】甲斐国から駿河国に通じる河内路(かわうちじ)に創られた観音札所
【開創】江戸時代の宝暦2年(1752)以前 甲斐九筋(かいくすじ)の道の内で、 甲斐から駿河(するが=静岡県)に通ずる道の 「河内路(かわうちじ)」「右左口路(うばくちじ)」「若彦路(わかひこじ)」 の3筋の内の河内路は、甲斐南部の富士川沿いに、日蓮宗総本山で知られた身延山を通って、駿河湾の富士市に到る道です。 その河内路に添って創られた観音札所が「河内路三十四観音」です。 | ||||||||||
(甲斐国)西郡筋三十三観音
山梨県 甲斐国 |
【所在】甲斐国の西郡筋に創られた観音札所
【開創】江戸時代 別資料では「九筋」とは土地区分であり、栗原筋・万力筋・大石和筋・小石和筋・中郡筋・北山筋・逸見筋・武川筋・西郡筋を指します。 その「西郡筋」に創られた観音札所が(甲斐国)西郡筋三十三観音です。 | ||||||||||
(甲斐国)峡南三十三観音
山梨県 甲斐国 |
【所在】甲斐国の峡南と呼ばれる地域に創られた観音札所
【開創】江戸時代の文化年間(1804) 山梨県の 峡南と呼ばれる地域は 市川三郷町・富士川町・早川町・身延町・南部町 を指します。 | ||||||||||
甲斐横道三十三観音
山梨県 甲斐国 |
【所在】甲斐国の(地域の人しか使わない)横道(よこどう)に創られた観音札所
【開創】享保9(1724)年 甲斐国から他国へ通じる街道(かいどう)では無く、地域の人しか使わない横道(よこどう)に創られた観音札所 甲斐国の横道とはいえ、全ての寺院は笛吹市に存在しています。 | ||||||||||
長野県 ( 山梨 新潟 甲信越 目次頁へ ) | |||||||||||
信濃三十三観音
長野県 信濃国 『信濃百観音』 『信濃西国三十三観音』 『信濃(撰)三十三観音』 |
【所在】長野県の旧信濃国に創られた『西国』写し札所。『信濃(撰)三十三観音』とも呼ばれる。
【開創】江戸時代初期 『信濃(撰)三十三観音』、『信(撰)三十三観音』、『信濃西国三十三観音』とも呼ばれる。 『信濃西国三十三観音(撰)』『信濃秩父三十四観音(府)』 『信濃坂東三十三観音(悟)』を合わせて 『信濃百観音』と呼ぶそうです。 信濃国は太古は科野国と呼んでいました。後に「信野」を経て「信濃」となりました。 『古事記』の国譲り神話にも出てくる科野国は、諏訪大社を中心にして、古代からの歴史のある地方です。 | ||||||||||
信濃秩父三十四観音
長野県 信濃国 『信濃百観音』 『信濃(府)三十四観音』 |
【所在】長野県の旧信濃国に創られた秩父34観音の写し札所。『信濃(府)三十四観音』とも呼ばれる。
【開創】江戸時代の元禄8年(1695)以前に開創された。 『信濃(信)三十四観音』、『信府三十四観音』、『松本三十四観音』とも呼ばれる。 『信濃西国三十三観音(撰)』『信濃秩父三十四観音(府)』 『信濃坂東三十三観音(悟)』を合わせて 『信濃百観音』と呼ぶそうです。 | ||||||||||
信濃坂東三十三観音
長野県 信濃国 『信濃百観音』 『信濃(悟)三十三観音』 |
【所在】長野県の旧信濃国に創られた坂東33観音写し札所。『信濃(悟)三十三観音』とも呼ばれる。
【開創】江戸時代の元禄8年(1695)以前に開創された。 『信濃(悟)三十三観音』『信悟三十三観音』、『信後三十三観音』とも呼ばれる。 信濃西国三十三観音(撰) 信濃秩父三十四観音(府) 信濃坂東三十三観音(悟)を合わせて 『信濃百番札所』と呼ぶそうです。 | ||||||||||
(旧)信州松本三十三観音
長野県 信濃国 |
【所在】旧信濃国の長野県松本市周辺に創られた観音札所
【開創】江戸時代の延享4年(1747年)の資料あり 現在の『松本三十三観音』の元になる霊場です。 25番の放光寺に延享4年(1747年)の資料があるそうです。 | ||||||||||
(信州)松本三十三観音
長野県 信濃国 『信府百番札所』 |
【所在】旧信濃国の長野県松本市周辺に創られた観音札所
【開創】江戸時代の延享4年(1747年)の資料あり 『松本三十三観音』は『仁科三十三観音』、『川西三十三観音』と合わせて『信府百番』と呼ばれるそうです。 25番の放光寺に延享4年(1747年)の資料があるそうです。 | ||||||||||
(信州)仁科三十三観音
長野県 信濃国 『信府百番札所』 『大町三十三観音』 |
【所在】長野県の大町市周辺の旧信濃国仁科藩に創られた観音札所
【開創】江戸時代の宝暦7年(1757) 地域の名から『大町三十三観音』とも呼ばれるそうです。(『仁科』は藩名) 『仁科三十三観音』は『松本三十三観音』、『川西三十三観音』と合わせて『信府百番』と呼ばれるそうです。 覚阿上人により、近在の霊仏古跡を巡る「仁科33番札所」が選定されたが、その後衰退の後に昭和後期に再興したそうです。 | ||||||||||
(信州)川西三十四観音
長野県 信濃国 『信府百番札所』 『南安曇郡川西三十四観音』 |
【所在】長野県の旧信濃国安曇郡に創られた観音札所。『南安曇郡川西三十四観音』とも呼ばれる。
【開創】江戸時代初期 川西三十三観音は安曇郡(現在の安曇野市、松本市)の寺院で構成されています。 『松本三十三観音』は『仁科三十三観音』、『川西三十三観音』と合わせて『信府百番』と呼ばれるそうです。 長野名物1 長野名物2 信濃みやげ1 信濃みやげ2 | ||||||||||
信州筑摩三十三観音
長野県 信濃国 |
【所在】長野県の旧信濃国の松本藩周辺に創られた観音札所
【開創】江戸時代の萬延元年(1860)の記録あり 筑摩地区は長野県松本市の薄川の南側の地域で、古くは「つかま」と読んだそうです。 読みにくいことから、明治以降に郡名などは「ちくま」に変更されました。 また、明治以降の一時期には筑摩県が存在したそうです。 | ||||||||||
佐久三十三観音
長野県 信濃国 |
【所在】長野県の旧信濃国の佐久郡に創られた観音札所
【開創】江戸時代の寛政13年(1802年)ごろ 佐久郡は長野県東信地方にあり、群馬県との県境に位置します。 | ||||||||||
諏訪三十三観音
長野県 信濃国 |
【所在】長野県の旧信濃国の信濃郡に創られた観音札所
【開創】平成以降 江戸時代開創の「諏訪郡霊場100番札所」の中から廃寺を除いた33寺を平成以降に再編し再興 諏訪大社は古事記にも記載されている程の由緒ある神社で、全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社です。 諏訪大社の御柱祭は「数えで7年」毎に行われ、諏訪地方における一大行事です。 諏訪湖で冬期に発生する事がある「御神渡り(おみわたり)」は、伝説では諏訪上社の男神が諏訪下社の女神のもとへ訪れに行った跡だといわれます。 | ||||||||||
諏訪郡霊場百番札所
諏訪郡東33札所 諏訪郡中34札所 諏訪郡西33札所 長野県 信濃国 |
【所在】長野県の旧信濃国の諏訪郡の観音札所。
【開創】江戸時代の天保6年(1835) 諏訪地方は、長野県の南信地方の現諏訪市、岡谷市を中心とした地域です。 諏訪地方のみで百寺もの観音札所を設けることは出来ず、観音菩薩以外の寺院も合わせて霊場を作ったといわれています。 (なお、明治政府の廃仏毀釈政策により数多くの寺院が廃寺になってしまった為に、残存した寺院や新規建立の寺院等を再編して、平成になって開創されたのが『諏訪33観音霊場』だそうです。) 諏訪大社は古事記にも記載されている程の由緒ある神社で、全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社です。 (伝わっているところでは、大国主命の国譲りの際に、天照大神の大和族に国譲りを迫られ、追われた出雲族は日本海の海岸を東に向かって北陸の越の国に着き、更に東北へ進む人達と南の信濃方面に向かう人達に分かれたそうです。その信濃方面に向かった人達は諏訪湖の辺まで来て留り、大和族との最後の戦いをして敗れて国譲りが決定したそうです。これが諏訪神社の始まりと言われています。) 諏訪大社の御柱祭は「数えで7年」毎に行われ、諏訪地方における一大行事です。 諏訪湖で冬期に発生する事がある「御神渡り(おみわたり)」は、伝説では諏訪上社の男神が諏訪下社の女神のもとへ訪れに行った跡だといわれます。 | ||||||||||
伊那西国三十三観音
長野県 信濃国 『伊那百観音』 |
【所在】長野県の旧信濃国の伊那郡に創られた西国33観音の写し札所
【開創】 江戸時代 伊那は長野県の南部の(南信地方)、天竜川に沿って南北に伸びる盆地の地域の名前です。 その伊那郡で選ばれた100観音の西国33観音札所となります。 『伊那西国三十三観音』と『伊那坂東三十三観音』と『伊那秩父三十四観音』とを 『伊那百観音』と呼ぶそうです。 | ||||||||||
伊那秩父三十四観音
長野県 信濃国 『伊那百観音』 |
【所在】長野県の旧信濃国の伊那郡に創られた秩父34観音の写し札所
【開創】 江戸時代の文政六癸未五月開創の記録あり(1823年) 伊那は長野県の南部の(南信地方)、天竜川に沿って南北に伸びる盆地の地域の名前です。 その伊那郡で選ばれた100観音の秩父34観音札所となります。 『伊那西国三十三観音』と『伊那坂東三十三観音』と『伊那秩父三十四観音』とを 『伊那百観音』と呼ぶそうです。 | ||||||||||
伊那坂東三十三観音
長野県 信濃国 『伊那百観音』 |
【所在】長野県の旧信濃国の伊那地域に創られた坂東33観音写し札所
【開創】江戸時代初期 伊那は長野県の南部の(南信地方)、天竜川に沿って南北に伸びる盆地の地域の名前です。 その伊那郡で選ばれた100観音の坂東33観音札所となります。 『伊那西国三十三観音』と『伊那坂東三十三観音』と『伊那秩父三十四観音』とを 『伊那百観音』と呼ぶそうです。 | ||||||||||
伊那坂東(別札)三十三観音
長野県 信濃国 |
【所在】長野県の旧信濃国の伊那地域に創られた、もう一つの坂東33観音写し札所
【開創】江戸時代 伊那に坂東33観音写し札所がもう一つ有る様です。 | ||||||||||
新潟県 ( 山梨 長野 甲信越 目次頁へ ) | |||||||||||
越後三十三観音
新潟県 越後国 |
【所在】新潟県の旧越後国に創られた観音札所
【開創】歴史は古く、鎌倉時代といわれる 鎌倉時代に北条氏第五代の最明寺時頼が越後巡錫の折に定めたと伝わり、古い歴史のある霊場です。 太古は越(こし)の国(古事記には高志国)(出雲国風土記には古志国)(日本書紀には越の国)という、 天武天皇の時代に3分(越前、越中、越後)して成立したそうです。古称は「こしのみちのしり」。 新潟のブランド米の「こしひかり」も越の国の「こし」から名付けられたのかも知れませんね。 | ||||||||||
蒲原三十三観音
新潟県 越後国 |
【所在】新潟県北部の旧越後国の蒲原郡に創られた観音札所
【開創】江戸時代の元文年代(1736-1741) 長楽寺住職 如霖道実和尚により創設されたと伝わります。 「蒲原まつり」は村上市の村上大祭、柏崎市の柏崎えんま市とならび新潟三大高市と言われ、 蒲原神社とその周辺に延べ1kmにわたり450店余りの露店が並び、新潟名物「ぽっぽ焼き」の露店も多数出店するそうです。 | ||||||||||
上田(南魚沼)三十三観音
新潟県 越後国 |
【所在】新潟県の旧越後国の魚沼郡の上田地域に創られた観音札所
【開創】 1970年の記録がある事から昭和以前 上田地域にある"いなか体験村「上田の郷」"では魚沼産コシヒカリの田植え体験や稲刈り体験やそば打ち体験が出来るそうです。 | ||||||||||
越後横道三十三観音
新潟県 越後国 |
【所在】越後国の(地域の人しか使わない)横道(よこどう)に創られた観音札所
【開創】江戸時代 越後国から他国へ通じる街道(かいどう)では無く、地域の人しか使わない横道(よこどう)に創られた観音札所 | ||||||||||
寺尾(南魚沼)三十三観音
新潟県 越後国 |
【所在】旧越後国の寺尾地域(現新潟県南魚沼市)に創られた観音札所
【開創】江戸時代 南魚沼市と言えばあの「コシヒカリ」の産地の魚沼です。 | ||||||||||
(越後)小国三十三観音
新潟県 越後国 |
【所在】新潟県の中南部の周囲を山に囲まれた『小国』に創られた観音札所。
【開創】江戸時代の嘉永元年戊申(1848)以前 長岡市小国町は新潟県の中南部に位置し、周囲を山に囲まれた独特の地形が「小国」の名前の由来になったそうです。 古くから米作りをはじめとする農業が主にさかんに行われてきたほか、紙すきの産地としても知られているそうです。 | ||||||||||
(越後)小川庄三十三観音
新潟県 越後国 |
【所在】会津藩だった小川庄の地域(現在は新潟県東蒲原郡)に創られた観音札所。
【開創】江戸時代 小川庄(こがわのしょう)は江戸時代までは会津藩でしたが、明治以降は新潟県に編入されて東蒲原郡に変わり、小川庄という地名は無くなったそうです。 | ||||||||||
(越後)妻在百三十三観音
新潟県 越後国 |
【所在】越後国の妻在(妻有)地域(現新潟県十日町市周辺)に創られた観音札所。
【開創】元禄4年(1691)に近辺の4つの観音札所を統合し成立した。 越後妻有とは 新潟県南部に位置する十日町市と津南町の妻有郷からなり、日本一の長さの信濃川中流域に開けた盆地を中心に栄えた地域です。 | ||||||||||
佐渡三十三観音
新潟県 佐渡国 |
【所在】金山で有名な佐渡島に創られた観音札所。
【開創】江戸時代中頃 金山で有名な新潟県佐渡島の佐渡市相川周辺の寺院で、 江戸時代中ごろの、浄土宗の僧により開創された。 | ||||||||||
札所集-目次 | |||||||||||
〔 北陸・東海 (
富山・
石川・
福井・
岐阜・
静岡・
愛知・
三重
) 〕
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北陸三十三観音
富山県 石川県 福井県 |
【所在】北陸地方の福井県・石川県・富山県で各県11寺ずつ選ばれた観音札所
【開創】開創は比較的新しく1987年。 北陸とは中部地方のうち日本海に面する地域で、新潟県、富山県、石川県、福井県の4県を「北陸4県」、あるいは富山県、石川県、福井県の3県を「北陸3県」と言うそうです。 北陸三十三観音は「北陸3県」から選ばれた観音札所です。 | ||||||||||
富山県 ( 石川 福井 岐阜 静岡 愛知 三重 北陸・東海 目次頁へ ) | |||||||||||
越中一国三十三観音
富山県 越中国 |
【所在】富山県の旧越中国に創られた観音札所
【開創】安土桃山時代の天正年間(1573-1593)といわれる 太古は越(こし)の国(古事記には高志国)(出雲国風土記には古志国)(日本書紀には越の国)という、 福井県から石川・富山・新潟・山形県のあたりまでに広がる広大な地域だったそうです。 越の国は位置から考えると、九州北部や出雲に次いで大陸との船の交易がしやすい地域のですので、太古に大いに栄えたと云う話に十分納得できます。 | ||||||||||
高岡新西国三十三観音
富山県 越中国 |
【所在】富山県高岡市内に創られた西国33観音の写し札所
【開創】 昭和3年 高岡市は富山県で富山市に次ぐ都市で、加賀藩が築いた高岡城の城下町として発展しました。 現在は商業工業が盛んです。 高岡市は加賀藩が築いた高岡城の城下町として発展した経過からか、 今でも、富山の人は冗談で「石川の人は富山を家来だと思っている」と文句を言っているようです。 | ||||||||||
東越三十三観音
富山県 越中国 |
【所在】富山県の富山市以東の地域に創られた観音札所
【開創】不明 日本海側の福井県から北は大昔は『越(こし)の国』(or古志の国or高志の国)と呼んだそうで、 その後、越前国(福井、石川)と越中国(富山)と越後国(新潟以北)と別れましたが 「東越三十三観音」の寺院は富山県の富山市以東に存在していますので、 「東越」の意味は越中の国の東側という意味になるのかも知れません。 | ||||||||||
石川県 ( 富山 福井 岐阜 静岡 愛知 三重 北陸・東海 目次頁へ ) | |||||||||||
金沢西国三十三観音
石川県 加賀国 |
【所在】石川県金沢市の旧加賀国に創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代中期の享保11年(1726)以前 石川県金沢市の旧加賀国に創られた西国33観音の写し札所です。 加賀国は幼少期から信長公に仕えた前田利家公の『加賀百万石』です。 大藩の豊かさが金箔を生み、現在でも日本の金箔の99.9%は金沢で作られているそうです。 その豊かさ故か、江戸時代には観音巡りが盛んだったそうです。 また、市内の兼六園は日本三名園の1つです。 (余談ですが、日本三名園は金沢の兼六園・水戸の偕楽園・岡山の後楽園です。) (高松の栗林公園は入っていませんが、日本三名園より優れていると、明治時代の文部省発行の高等小学読本に書いてあったそうです。) | ||||||||||
金沢坂東三十三観音
石川県 加賀国 |
【所在】石川県金沢市の旧加賀国に創られた坂東33観音写し札所
【開創】江戸時代中期の享保11年(1726)以前 金沢西国三十三観音と同様に、 前田利家公の『加賀百万石』の加賀国に創られた坂東33観音の写し札所です。 | ||||||||||
金沢三十三観音
石川県 加賀国 |
【所在】石川県金沢市の旧加賀国に創られた観音札所
【開創】江戸時代:享保11年以前、明治時代に再興 江戸時代に存在した『金沢西国三十三観音』と『金沢坂東三十三観音』を明治時代に統合し、新規寺院も追加して再興したと言われる霊場です。 | ||||||||||
能登国三十三観音
石川県 能登国 |
【所在】石川県の旧能登国に創られた観音札所
【開創】江戸時代以前 能登国は現在の石川県北部の能登半島にあたる地域で、 江戸時代には越前・能登にまたがる『加賀百万石』があり、 大藩ならではの金箔などの豊かな文化があった為か、 能登半島でも観音巡りが盛んだったそうです。 | ||||||||||
福井県 ( 富山 石川 岐阜 静岡 愛知 三重 北陸・東海 目次頁へ ) | |||||||||||
越前国三十三観音
福井県 越前国 |
【所在】福井県の旧越前国に創られた観音札所
【開創】江戸時代 「越前ガニ」や「羽二重餅」、お米も旨い。 あの「コシヒカり」を日本で最初に作ったのは福井県だと、福井県農業試験所の人が言っていました。 | ||||||||||
若狭三十三観音
福井県 若狭国 |
【所在】福井県の旧若狭国に創られた観音札所
【開創】昭和57年(1982年) 奈良の東大寺で実施されるお水取りは、東大寺が小浜に持っていた荘園に由来する祭だそうです。 また、製塩も盛んで、江戸時代まで若狭地方は京都の外港として発展したそうです。 太古から大陸との交易で栄えたと言われる越の国に隣接し、京の都にも近く栄えた若狭国は観音信仰の盛んな地域で、平安時代から鎌倉時代に作られた観世音菩薩像が点在しているそうです。 「若狭三十三観音」の開創時期は記録が無く不明ですが、昭和57年(1982年)新たに開創されたそうです また、若狭湾は(弥生時代の初めに、秦の始皇帝の命をうけて不老長寿の薬を探す為との理由で、大勢の渡来人を連れて日本に来たと言われている)徐福の1回目の上陸地としても知られています。 | ||||||||||
大飯郡内新秩父三十四観音
福井県 若狭国 |
【所在】福井県の旧若狭国の大飯郡(高浜町 おおい町)に創られた秩父34観音の写し札所
【開創】 大正11年 若狭国の大飯郡は現在は福井県の西南部で京都府に接しています。 江戸時代は全域が小浜藩領でした。 今は 大飯=原発 が知られています。 | ||||||||||
大飯郡内新坂東三十三観音
福井県 若狭国 |
【所在】福井県の旧若狭国の大飯郡(高浜町 おおい町)に創られた坂東33観音写し札所
【開創】 大正11年 大飯郡内新坂東三十三観音は大飯郡内新秩父三十四観音と同様に若狭国の大飯郡は福井県の西南部で京都府に接しています。 江戸時代は全域が小浜藩領でした。 今は 大飯=原発 が知られています。 | ||||||||||
〔 東海 〕 | |||||||||||
岐阜県 ( 富山 石川 福井 静岡 愛知 三重 北陸・東海 目次頁へ ) | |||||||||||
美濃三十三観音
岐阜県 美濃国 『東海百観音』 |
【所在】岐阜県南部の旧美濃国に創られた観音札所
【開創】江戸時代中頃 (美濃33観音霊場、尾張33観音霊場、三河33観音霊場と豊川稲荷(妙厳寺)をあわせて、『東海百観音』と呼ばれます。) 美濃といえば、油売りから美濃国の主にまで登りつめ、「美濃のマムシ」と恐れられた斎藤道三です。 最期は「息子に殺された」そうですが、娘の能姫の縁談相手の「尾張の大うつけ」を一目見て 「只者では無い」と見抜いたそうですが、その道三の眼力のほうも只者ではありません。 | ||||||||||
美濃西国三十三観音
岐阜県 美濃国 |
【所在】岐阜県南部の旧美濃国に創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代(1727年?) [ 美濃国と土岐氏、斎藤氏、明智氏の関係 ] 美濃国は室町幕府から土岐氏が代々美濃国の「守護」に任ぜられています。 しかし、守護在京制の為に土岐氏は国におらず、国は上位の家来の「守護代」が守っていました。 斎藤氏は美濃国の「守護代」の家ですが。土岐氏不在の間に実質的に国を乗っ取っていました。 また、斎藤道三は武家の出でも地元出身でも無く(詳細不明)、油売りだったと言われていますが、数々の努力や策略で斎藤名を名乗り、乗っ取り、美濃国の「守護代」にまで上り詰めました。(あくまでも美濃国の「守護」は土岐氏です。) 明智氏は、美濃国可児郡の明智荘に住む土岐氏の分家の一族ですので、明智氏の主君は土岐氏で、明智家は土岐家の家来であり斎藤家の家来ではありません。明智氏の上位の土岐家家来が斎藤氏(守護代)と云うことになります。 | ||||||||||
土岐三十三観音
岐阜県 美濃国 |
【所在】岐阜県旧美濃国の(土岐源氏発祥の)土岐郡(ときぐん)に創られた観音札所
【開創】江戸時代:元禄八年(1695) 土岐源氏発祥の旧美濃国土岐郡は岐阜県南東部に位置します。 土岐氏は室町幕府から美濃国の「守護」に任ぜられた名家です。 | ||||||||||
美濃瑞浪三十三観音
岐阜県 美濃国 |
【所在】土岐源氏発祥の旧美濃国土岐郡の瑞浪市に創られた観音札所
【開創】昭和59年 土岐源氏発祥の旧美濃国土岐郡は岐阜県南東部に位置します。中山道の宿場町があります。 | ||||||||||
西美濃三十三観音
岐阜県 美濃国 |
【所在】岐阜県の旧美濃国の大垣市を中心とした西美濃一帯に創られた観音札所
【開創】江戸時代(文政4年) 西美濃三十三観音は江戸時代に美濃国の大垣藩内から多くの寺院が選ばれ創られたそうです。 明治政府の廃仏毀釈政策による廃寺などにより一時衰退しましたが、昭和55年に再興し、西濃2市7町の西美濃一帯に33寺院が広がります。 | ||||||||||
恵那三十三観音
岐阜県 美濃国 |
【所在】岐阜県の旧美濃国恵那郡に創られた観音札所
【開創】江戸時代の宝暦8年(1758)。昭和60年再興。 有名な恵那峡や中山道大井宿がある恵那です。岐阜県南東部にあります。 | ||||||||||
恵那西国三十三観音
岐阜県 美濃国 |
【所在】岐阜県の旧美濃国恵那郡に創られた西国33観音の写し札所
【開創】不明なから江戸時代以前と思われる。明治26年再興 美濃国には中山道の17の宿場があり、恵那にある大井宿は美濃国の中でも、中山道の全宿場(69宿)の中でも、最も大きな宿場だったそうです。 町の道が「升形」という(敵の侵入を防ぐために)直角に作られた道が6カ所も残っているそうです。 | ||||||||||
飛騨三十三観音
岐阜県 飛騨国 |
【所在】岐阜県の旧飛騨国に創られた観音札所
【開創】平成 飛騨国の字は本来は騨の字ではなく驒の字を用いて、飛驒国と表記するのが正しいそうです。 岐阜県中央部の飛騨山脈の北側に位置する飛騨地方は隣県の富山県と気候、交通、経済、文化などの結びつきが強く、両者をまとめて「飛越地方」とも呼ばれるそうです。 | ||||||||||
益田西国三十三観音
岐阜県 飛騨国 |
【所在】岐阜県下呂市の旧飛騨国益田(ました)郡に創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代後期の天保10年(1839)年 益田(ました)郡は現在の下呂市の大部分と高山市の一部を含み、有名な温泉の下呂温泉や有名な観光地の飛騨高山を持ち、賑った郡だったそうです。 | ||||||||||
静岡県 ( 富山 石川 福井 岐阜 愛知 三重 北陸・東海 目次頁へ ) | |||||||||||
駿河三十三観音
静岡県 駿河国 |
【所在】静岡県の旧駿河国に創られた観音札所
【開創】江戸時代初期 徳川家康公が余生を過ごした駿府の観音札所です。 西の藤枝市から東の沼津市まで札所が散在しています。 『駿河一国観音霊場』とも呼ばれるそうです。 | ||||||||||
安倍七観音
静岡県 駿河国 |
【所在】静岡県の旧駿河国の安倍郡の七観音霊場
【開創】奈良時代の養老2年(718年)といわれ、西国33観音発祥と同じ年になります。 聖武天皇の病気快癒の祈願の為に行基上人が静岡市内の寺院に7体の千手観世音菩薩を安置したといわれ、一般庶民にこの七観音巡りが浸透したのは室町時代のことだそうです。 この「安倍七観音霊場」は後に「駿河三十三観音霊場」に発展したそうです。 | ||||||||||
静岡新西国三十三観音
静岡県 駿河国 |
【所在】静岡県静岡市内に創られた西国33観音の写し札所
【開創】大正5年(1916) 静岡県静岡市内に寺院が点在します。観音講の講員数人が発起して開創したそうです。 | ||||||||||
駿河国志太郡七観音
静岡県 駿河国 |
【所在】静岡県の旧志太郡に創られた七観音霊場
【開創】不明(明治12年~昭和36年) 旧志太郡は現在の藤枝市の大部分や焼津市の一部および島田市の一部だそうです。 志太郡の名は明治12年に出来ました。 また昭和36年に志太郡七観音に関する本が発刊されているそうです。 | ||||||||||
駿河横道三十三観音
静岡県 駿河国 |
【所在】静岡県の旧駿河国に創られた観音札所
【開創】江戸時代初期 横道はご詠歌の札所名に使われる場合は「よこどう」と呼ばれる様で、横道(よこどう)とは"街道(かいどう)から分岐した、その地域内の往来にしか利用しない道" の意味だそうです。 従って「駿河横道三十三観音」は駿河国の往来にしか利用しない道に在る寺院で創られた観音札所の意味となります。 | ||||||||||
御厨横道三十三観音
静岡県 駿河国 |
【所在】静岡県の旧駿河国の御厨地域(小山町と御殿場市及び裾野市の一部)に創られた観音札所
【開創】平成 5年 横道はご詠歌の札所名に使われる場合は「よこどう」と呼ばれる様で、横道(よこどう)とは"街道(かいどう)から分岐した、その地域内の往来にしか利用しない道" の意味だそうです。 従って「御厨横道三十三観音」は駿河国の御厨地域(小山町と御殿場市及び裾野市の一部)の往来にしか利用しない道に在る寺院で創られた観音札所の意味となります。 | ||||||||||
富士横道三十三観音
静岡県 駿河国 |
【所在】静岡県の旧駿河国の富士郡に創られた観音札所
【開創】江戸中期以前。 横道はご詠歌の札所名に使われる場合は「よこどう」と呼ばれる様で、横道(よこどう)とは"街道(かいどう)から分岐した、その地域内の往来にしか利用しない道" の意味だそうです。 従って「富士横道三十三観音」は駿河国の富士郡の往来にしか利用しない道に在る寺院で創られた観音札所の意味となります。 | ||||||||||
伊豆横道三十三観音
静岡県 伊豆国 |
【所在】静岡県の旧伊豆国に創られた観音札所
【開創】歴史は古く、平安時代の承安3年(1173年)といわれる 横道はご詠歌の札所名に使われる場合は「よこどう」と呼ばれる様で、横道(よこどう)とは"街道(かいどう)から分岐した、その地域内の往来にしか利用しない道" の意味だそうです。 | ||||||||||
伊豆中道三十三観音
静岡県 伊豆国 |
【所在】静岡県の旧伊豆国に創られた観音札所
【開創】江戸時代 「横道(よこどう)」「中道(なかどう)」とは、例えば伊豆国では 伊豆国以外の国へと繋がる(大通りの)「街道(かいどう)」では無く、 伊豆国内だけを行き来するローカルな道の事だそうです。 | ||||||||||
遠江三十三観音
静岡県 遠江国 |
【所在】静岡県中西部の旧遠江国に創られた観音札所
【開創】室町末期とも言われる古い歴史を持つ。 西は天竜川から東は大井川までの地域のようです。 遠江国(とうとうみのくに)は知らなくても遠州は日本の誰もが知っています。遠州森の石松の遠州です。 | ||||||||||
遠州三十三観音
静岡県 遠江国 |
【所在】遠州灘に面した静岡県西部地方を指す遠州地域に創られた観音札所
【開創】遠江観音とは別で、昭和59年(1984年)開創 観音札所としての歴史は浅いが、各寺院はそれぞれ古い由緒を持つといわれます。 | ||||||||||
引佐三十三観音
静岡県 遠江国 |
【所在】静岡県浜松市の旧遠江国引佐郡に創られた観音札所
【開創】江戸時代の宝永3年~正徳3年(1706~13)成立 引佐(いなさ)という文字は平安時代以前から使われていた古くからある地名ですが、現在は浜松市に編入され、引佐という地名は消えました。 | ||||||||||
(遠江)川西三十三観音
静岡県 遠江国 |
【所在】静岡県の旧遠江国の天竜川の西側の川西と呼ばれる地域に創られた観音札所
【開創】江戸時代:正徳二年(1712)壬辰 天竜川の西側は現在の浜松市になります。 天竜川の東側は現在の磐田市になります。 | ||||||||||
遠江天竜川西三十三観音
静岡県 遠江国 |
【所在】静岡県の旧遠江国の天竜川の西側の地域に創られた観音札所
【開創】江戸時代以前 天竜川の西側は現在の浜松市になります。 天竜川の東側は現在の磐田市になります。 | ||||||||||
(遠江)豊田郡三十三観音
静岡県 遠江国 |
【所在】静岡県の旧遠江国の豊田郡(とよだぐん)に創られた観音札所
【開創】江戸時代:享保年間(1716-1736) 豊田郡(とよだぐん)は、静岡県(遠江国)にあった郡で、現在の磐田市の一部、袋井市の一部、浜松市の一部を含みます。 | ||||||||||
(遠江国)磐田郡三十三観音
静岡県 遠江国 |
【所在】静岡県の旧磐田郡に創られた観音札所
【開創】大正時代以前 磐田郡(いわたぐん)は静岡県(遠江国)にあった郡で、現在の磐田市中心部にあたります。 天竜川の東側になります。 | ||||||||||
浜名西国三十三観音
静岡県 遠江国 |
【所在】静岡県の浜名湖北側の三ヶ日(みっかび)町に創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代 浜名湖北側の三ヶ日町と言えば (今は知らないですが)昔JR夜行バスの東京・大阪行きの途中の深夜にバスが静かに高速道路を離れて、三ヶ日(みっかび)という地名の所で暫く止まり、運転手が交代していました。 | ||||||||||
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尾張三十三観音
愛知県 尾張国 『東海百観音』 |
【所在】愛知県の旧尾張国に創られた観音札所
【開創】江戸時代 江戸時代に多くの巡礼者を迎え栄えたが、明治政府の廃仏毀釈などによって途絶後、1958年再興 (美濃33観音霊場、尾張33観音霊場、三河33観音霊場と豊川稲荷(妙厳寺)をあわせて、『東海百観音』と呼ばれます。) 尾張国は豊富な水量の木曽三川と肥沃な濃尾平野を持ち稲作に適した条件から、早くから弥生文化が発達した。隣の三河国や美濃国は稲作できる十分な水量が得られない為に縄文文化から抜け出せなかった為に、大和朝廷から見ると尾張国を「都の終り」の意味でオワリ(尾張)国という名がついたそうです。(本当の話みたいです。) 尾張といえば何と言っても「尾張の大うつけ」と呼ばれた天下統一の織田信長です。 豊臣秀吉も生まれは尾張国です。この2人と三河の徳川家康を含めた3人を「三英傑」と呼ぶそうです。 また、江戸時代には徳川御三家の内の一つの尾張徳川家が西方向に睨みを効かせました。 | ||||||||||
尾張城東三十三観音
愛知県 尾張国 |
【所在】愛知県の尾張城の東域に創られた観音札所
【開創】江戸時代:文化13年(1816)以前 大正15年再興 尾張国の代表的なお城には名古屋城、犬山城、小牧山城、清洲城 などがありますが、 名古屋市内にあるのは(金のシャチで有名な)名古屋城(那古野城)のみです。織田信長公の居城で知られた清洲城は清須市にあります。 尾張城東三十三観音の寺院の分布は 名古屋市東部以外には尾張国の長久手市,日進市,豊明市,尾張旭市,瀬戸市などに広がっています。 | ||||||||||
三河三十三観音
愛知県 三河国 『東海百観音』 |
【所在】愛知県の旧三河国に創られた観音札所
【開創】不明 昭和32年(1957年) (美濃33観音霊場、尾張33観音霊場、三河33観音霊場と豊川稲荷(妙厳寺)をあわせて、『東海百観音』と呼ばれます。) 早くから弥生文化が発達した尾張国は違い、稲作できる十分な水量が得られない貧弱な土地だったと言われる三河国。 その三河の岡崎城で生まれた徳川家康公。(秀吉公と違い)生まれた時から大名の子でしたが、幼少より(松平)竹千代は今川の人質となり、三河武士と呼ばれる家来達は"竹千代君が元服して松平家を復興する迄は”と、砂をかむ様な生活を耐えしのいだ。と本で読んだ記憶があります。 また三河国と言えば、吉良氏や今川氏も三河国から生まれています。 | ||||||||||
三河国三十三観音
愛知県 三河国 『三河国百観音』 |
【所在】愛知県旧三河国(参河国)(みかわのくに)に創られた観音札所
【開創】不明ながら江戸時代と思われる (三河国33観音、三河国准坂東33観音、三河国准秩父34観音をあわせて、『三河国百観音』と呼ばれるそうです。) 三河と言えば岡崎が徳川家康公の出生地、生まれた時の名は松平竹千代です。 三河の松平家は東は駿府の今川家、西は尾張の織田家に挟まれた 心細い弱小国でした。 実際に幼少時の家康公(竹千代)は今川家にも織田家にも人質になっています。 (その間、ほんの誰かの気まぐれで殺されていたら、日本は今どう違って???) | ||||||||||
参河国三十三観音
愛知県 三河国 |
【所在】愛知県旧三河国(参河国)(みかわのくに)に創られた観音札所
【開創】江戸時代:明和6年(1769) 「三河国」と「参河国」は漢字が異なるだけで同じ国を表します。 「三河国三十三観音」と「参河国三十三観音」とでは重複する寺院がありますが、ご詠歌が違う事が多いので、別々に掲載しました。 | ||||||||||
三河国准坂東三十三観音
愛知県 三河国 『三河国百観音』 |
【所在】愛知県旧三河国に創られた坂東33観音写し札所
【開創】江戸時代:文政2年(1819) (三河国33観音、三河国准坂東33観音、三河国准秩父34観音をあわせて、『三河国百観音』と呼ばれるそうです。) | ||||||||||
三河准秩父三十四観音
愛知県 三河国 『三河国百観音』 |
【所在】愛知県旧三河国に創られた秩父34観音の写し札所
【開創】不明ながら江戸時代と思われる (三河国33観音、三河国准坂東33観音、三河国准秩父34観音をあわせて、『三河国百観音』と呼ばれるそうです。) | ||||||||||
(三河)新城三十三観音
愛知県 三河国 |
【所在】愛知県旧三河国の東三河地方に創られた観音札所
【開創】江戸時代:享保20年(1735)乙卯2月 新城市は愛知県東部に位置し、豊橋市や豊川市の北にあります。 (織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼の軍勢が戦った)歴史上有名な「長篠の合戦」の長篠は新城市に在ります。 | ||||||||||
(三河)幡豆郡三十三観音
愛知県 三河国 |
【所在】愛知県旧三河国の幡豆郡(はずぐん)に創られた観音札所
【開創】不明ながら江戸時代と思われる 三河国の幡豆郡(はずぐん)は現在の愛知県西尾市の東部に位置しており、 幡豆郡吉良町は「吉良氏」で知られた所です。 吉良氏は清和源氏の足利将軍家の血を引く名家で、吉良氏の名は三河国幡豆郡吉良庄から名付けたと言われています。 また幡豆郡にて吉良氏の血脈から「今川氏」が発祥した地とも言われています。 三河吉良氏は家格が高く、室町幕府においては足利御三家の筆頭に位置付けられ、「御所(足利将軍)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と俗に言われる程の格式だったそうです。 それ故か、江戸幕府でも初期から(今川家らと共に)吉良家は高い家格の高家(こうけ)として官位も高く位置づけられていて、忠臣蔵の後に吉良家は一旦は改易となりましたが後に子孫が家名を継き、また米沢藩「上杉氏」に養子となっており、その血統は現在まで受け継がれているそうです。 | ||||||||||
(三河)西条吉良順礼三十三観音
愛知県 三河国 |
【所在】愛知県旧三河国吉良庄の西条と呼ばれる地域に創られた観音札所
【開創】江戸時代:宝暦2年(1752)壬申 鎌倉中期に足利家の足利義氏が三河国幡豆郡吉良荘(現愛知県西尾市吉良町)の地頭職を得たそうです。当時の吉良荘は古矢作川の東西に広がっており、川の東西をそれぞれ「東条」、「西条」と呼ばれていました。 ここで吉良氏の名が生まれて、「吉良」の名は地名の「吉良庄」から名付けたと言われています。 後に、足利義氏が地頭職を子に譲る際に、(相続争いか?)「西条」を長男の吉良長氏が譲り、「東条」を弟の吉良義継に譲ったことに始まり、南北朝時代には西条吉良氏と東条吉良氏に分裂したそうです。 尚、長男の吉良長氏は幡豆郡今川荘を隠居地としたが、その次男国氏がこれを継承して今川氏の祖となったそうです。 | ||||||||||
(三河)東城吉良三十三観音
愛知県 三河国 |
【所在】愛知県旧三河国吉良庄の東条と呼ばれる地域に創られた観音札所
【開創】不明ながら江戸時代と思われる。昭和6年再編 鎌倉中期に三河国幡豆郡吉良荘の地頭職を得た足利義氏が地頭職を子に譲る際に、(相続争いか?)古矢作川の東西の「西条」を長男の吉良長氏に譲り、「東条」を弟の吉良義継に譲ったことに始まり、南北朝時代には西条吉良氏と東条吉良氏に分裂したそうです。 弟の義継は東条(城は現西尾市吉良町駮馬〈まだらめ〉城山)を本拠としました。 (三河)東城吉良三十三観音は東条(東城)吉良に創られた観音札所です。 | ||||||||||
奥三河今西国三十三観音
愛知県 三河国 |
【所在】愛知県旧三河国の奥三河と呼ばれる地域に創られた西国33観音の写し札所
【開創】不明ながら江戸時代以前と思われる 「奥三河今西国」の奥三河とは 旧三河国北東部の山間部を指すそうです。 (寺院の所在地を見ると、愛知県北設楽郡が奥三河の中心の様です。) 「奥三河今西国」の今西国の「今」の意味が良く判りませんが、 西国15番の今熊野観音寺の「今熊野」の”熊野神社の分霊を今この地(京都:東山)に祀る”という意味の「今」と同じなら、「奥三河今西国」の「今」は”西国三十三観音を今この地(奥三河)に祀る”という意味になる様に思われます。 | ||||||||||
知多西国三十三観音
愛知県 尾張国 |
【所在】愛知県の旧尾張国知多郡に創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代の明和7年(1770) 智善上人によって開かれたそうです。 | ||||||||||
南知多三十三観音
愛知県 尾張国 |
【所在】愛知県旧尾張国の南知多に創られた観音札所
【開創】昭和4年(1929年) | ||||||||||
三重県 ( 富山 石川 福井 岐阜 静岡 愛知 北陸・東海 目次頁へ ) | |||||||||||
伊勢西国三十三観音
三重県 伊勢国 |
【所在】三重県の旧伊勢国に創られた西国33観音の写し札所
【開創】不明ながらも平安時代前期の巡拝記録あり。平成18年(2006年)再編 伊勢国は何と言っても「お伊勢さん」とも呼ばれる伊勢神宮です。 江戸時代の庶民にとって"一生に一度は「お伊勢参り」をしたい"と思っていたと言われます。 しかし、伊勢までの旅費は相当な負担でしたので、「お伊勢講」という仕組みが生み出されたそうです。 「講」の者は定期的にお金を出し合い、「くじ引き」で選ばれた2~3人の旅費とし、選ばれた人達はその年の「お伊勢参り」をする、 そして、交代で「講」の全員が「お伊勢参り」が出来るようにする、このような仕組みだった様です。 弥次・喜多の『東海道中膝栗毛』も「お伊勢参り」の話です。京都三条や駿府城に本当に銅像があるそうです。 | ||||||||||
(旧)伊勢三十三観音
三重県 伊勢国 |
【所在】三重県の旧伊勢国に創られた観音札所
【開創】不明ながらも平安時代前期の巡拝記録あり。 「伊勢西国三十三観音」の基になった霊場と思われますが、2/3以上の寺院が異なるために別に掲載します。 | ||||||||||
(伊勢)山田順礼三十三観音
三重県 伊勢国 |
【所在】三重県の旧伊勢国に創られた観音札所
【開創】不明ながら江戸時代と思われる 山田(やまだ)は三重県伊勢市街地の地名であり。伊勢神宮外宮の鳥居前の地域です。 内宮の宇治(うじ)地域と共に外宮の山田(やまだ)地域は室町時代から伊勢の中心として発展してきました。 (現在の伊勢市は以前は宇治山田市という名前でした。) また、JR伊勢市駅とならび近鉄の宇治山田駅は伊勢神宮参拝の玄関口となっています。 | ||||||||||
(伊勢)山田三十三観音
三重県 伊勢国 |
【所在】三重県の旧伊勢国に創られた観音札所
【開創】不明ながらも平安時代前期の巡拝記録あり。平成18年(2006年)再編 山田(やまだ)は三重県伊勢市街地の地名であり。伊勢神宮外宮の鳥居前の地域です。 (現在の伊勢市は以前は宇治山田市という名前でした。) | ||||||||||
伊勢二見西国三十三観音
三重県 伊勢国 |
【所在】三重県の旧伊勢国に創られた観音札所
【開創】不明 初日の出の遙拝で有名な(大注連縄で結ばれた男岩と女岩の)夫婦岩(めおといわ)のある二見浦(ふたみがうら)の周辺に創られた観音札所です。 二見浦は伊勢神宮の近くですので「お伊勢参り」の際に立ち寄られた人も多いと思われます。 | ||||||||||
(伊勢)松阪近所三十三観音
三重県 伊勢国 |
【所在】三重県の旧伊勢国の松阪近辺に創られた観音札所
【開創】不明ながらも江戸時代と思われる 松阪と言えば、勿論あの松阪肉で有名な松阪です。 | ||||||||||
桑名三十三観音
三重県 伊勢国 |
【所在】三重県桑名市の旧伊勢国桑名郡に創られた観音札所
【開創】江戸時代の天保年間(1831-1845) 昔の東海道は京都から桑名までは陸路だが、桑名からは海路となり名古屋の宮宿まで七里の渡し(28km)を使ったため、桑名宿・宮宿は旅籠屋数が東海道中で1,2を誇り、大いに賑わったそうです。 桑名はことわざの「その手は桑名の焼き蛤」でも知られます。 | ||||||||||
一志郡三十三観音
三重県 伊勢国 |
【所在】三重県の旧伊勢国一志郡(現在の津市、松阪市の一部)に創られた観音札所
【開創】不明ながらも江戸時代と思われます。 古代は一志(いし)と読まれたそうで、江戸時代は紀伊和歌山藩の所轄でした。 現在は三重県の津市と合併されました。 | ||||||||||
芸濃三十三観音
三重県 伊勢国 |
【所在】三重県の旧伊勢国安濃郡にあった芸濃町に創られた観音札所
【開創】 江戸時代の宝永七年(1710)以前 安濃(あのう)は古代には「あの」と読まれ、安濃郡は現在は三重県の津市と合併されました。 講談や浪曲で有名な「荒神山の喧嘩」の舞台は伊勢国の荒神山で、 喧嘩相手はどちらも伊勢の博徒の神戸の長吉と安濃徳。神戸の長吉には吉良の仁吉や清水次郎長、安濃徳には黒駒の勝蔵がついた大喧嘩になったという話です。 | ||||||||||
伊賀国準西国三十三観音
三重県 伊賀国 |
【所在】三重県西部の旧伊賀国に創られた西国33観音の写し札所
【開創】不明ながらも江戸時代と思われる 三重県の西部に位置する旧伊賀国の名張市、伊賀市の観音札所 | ||||||||||
熊野西国三十三観音
三重県 紀伊国 |
【所在】紀伊半島の旧紀伊国牟婁郡の熊野地域(三重県一部和歌山県)に創られた西国33観音の写し札所
【開創】昭和以降 平安時代の「蟻の熊野詣」の「 熊野三山 」でも有名な熊野信仰の本山です。 なお、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の内の熊野那智大社にある青岸渡寺は 西国三十三観音の一番札所です。 | ||||||||||
札所集-目次 | |||||||||||
〔 近畿 (
滋賀・
京都・
大阪・
兵庫・
奈良・
和歌山
) 〕
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西国三十三観音
近畿全域 畿内 | 札所ご詠歌集TOP頁 に掲載しています。 | ||||||||||
新西国三十三観音
近畿全域 畿内 |
【所在】近畿一円の西国三十三観音に含まれていない観音札所
【開創】昭和7年 昭和7年に当時の三都新聞連合が提唱して近畿一円の西国三十三観音に含まれていない名刹を選定しました。 | ||||||||||
滋賀県 ( 京都 大阪 兵庫 奈良 和歌山 近畿 目次頁へ ) | |||||||||||
近江西国三十三観音
滋賀県 近江国 |
【所在】滋賀県の琵琶湖を取り囲む旧近江国に創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代の享保年間(1716-1736) 近江国の古地名は近淡海(ちかつおうみ)。すなわち琵琶湖の意味です。 畿内に隣接するために古くから開け,大津には667年から天智天皇の都が置かれました。 | ||||||||||
江州伊香三十三観音
滋賀県 近江国 |
【所在】滋賀県の湖北地方の旧近江国伊香郡に創られた観音札所
【開創】江戸時代の文政11年(1828年) 観音菩薩の化身といわれた尼僧が西国三十三所の土を伊香に持ちかえり、1828年に開創したと伝えられます。 | ||||||||||
甲賀西国三十三観音
滋賀県 近江国 |
【所在】滋賀県の旧近江国の甲賀郡に創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代の安永元年(1772年) 甲賀忍者で有名な甲賀(こうか)です。 | ||||||||||
湖国十一面観音
滋賀県 近江国 |
【所在】滋賀県の旧近江国の十一面観音のみの11寺院からなる観音霊場
【開創】江戸時代末期 湖国とは正式名では無く、琵琶湖のある近江国の異称だそうです。 | ||||||||||
蒲生西国三十三観音
滋賀県 近江国 |
【所在】滋賀県の旧近江国の蒲生郡に創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代末期 旧蒲生郡は現在の日野町と竜王町に近江八幡市の大部分や東近江市の一部を含む地域です。 | ||||||||||
湖東三十三観音
滋賀県 近江国 |
【所在】滋賀県の琵琶湖東の地域に創られた観音札所
【開創】江戸時代の天保15年(1845)以前 琵琶湖の東岸は北から「湖北」「湖東」「東近江」「湖南」エリアと呼ばれ、 西岸は北から「高島」「大津」エリアと呼ばれます。 なお同じ滋賀県の「甲賀(こうか)」エリアは琵琶湖には接していません。 | ||||||||||
高島三十三観音
滋賀県 近江国 |
【所在】滋賀県の旧近江国の高島郡に創られた観音札所
【開創】不明ながら江戸時代と思われる 高島郡は琵琶湖西岸の北側です。(南側は大津市) 関西からは手近なスキー場が多い地域の印象で、JR湖西線が走っています。 | ||||||||||
大津三十三観音
滋賀県 近江国 |
【所在】滋賀県の旧近江国の大津藩に創られた観音札所
【開創】江戸時代:元治元年(1864) 京都から程近く、延暦寺のある比叡山やびわ湖への入り口となる大津は、 「近江大津宮」が日本の都であった時期もあり、 三井寺や石山寺などの有名寺院や清少納言や紫式部などの百人一首に縁のある地や人が多くあります。 また、天智天皇を御祭神とする近江神宮は(かるたの聖地として)競技かるた決定戦の会場となっています。 | ||||||||||
江州三十三観音
滋賀県 近江国 |
【所在】滋賀県の旧近江国の琵琶湖周辺に創られた観音札所
【開創】江戸時代 江州とは近江国(現在の滋賀県)を指します。 江州三十三観音は別名で『江州湖辺三十三所』『近江湖辺三十三所』とも呼ばれます。 | ||||||||||
膳所三十三観音
滋賀県 近江国 |
【所在】滋賀県の旧近江国の膳所藩に創られた観音札所
【開創】不明ながら江戸時代と思われる 膳所は大津市の琵琶湖南岸の地名で、古代は水陸共に膳所を通る、交通の要所でした。 百人一首の『朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに 現われ渡る 膳所(ぜぜ)の網代木(あじろぎ)』 でもしられる膳所です。 | ||||||||||
彦根近辺(遠回り)三十三観音
滋賀県 近江国 |
【所在】滋賀県の旧近江国の彦根藩に創られた観音札所
【開創】不明ながら江戸時代と思われる 彦根は滋賀県東部の琵琶湖東岸に位置し、中山道の宿場町も2つあり賑わったそうです。 石田三成が築城した佐和山城が江戸時代には井伊家の彦根城となり、西日本の外様大名に睨みを利かせる重要な役割を担ったそうです。 | ||||||||||
(近江)日野町三十三観音
滋賀県 近江国 |
【所在】滋賀県の旧近江国蒲生郡の日野町に創られた観音札所
【開創】不明 日野町は滋賀県の南東部(北:東近江市と南:甲賀市の間)に位置します。 この地に人が住み始めたのは旧石器時代の終わりの頃の今から約1万2千年前と言われています。 若狭湾から奈良への通路になる為か、飛鳥時代には既に百済の文化が持ち込まれていたそうです。 室町時代以降は蒲生氏がこの地を治めました。特に(信長の娘冬姫を妻とし、日野に楽市楽座を開いた)蒲生氏郷公は今も日野の人々に慕われているそうです。 日野の商人は(てんびん棒一本を肩にして日本各地を行商し、やがて豪商へと出世した)近江商人(江州商人)の基礎を築いたと言われています。 | ||||||||||
京都府 ( 滋賀 大阪 兵庫 奈良 和歌山 近畿 目次頁へ ) | |||||||||||
洛陽三十三観音
京都府 山城国 |
【所在】京都府の旧山城国の洛中に創られた観音札所
【開創】平安時代の末期。その後、廃れ・復活の後に平成で復活 開創は平安時代の末期といわれ、後白河上皇が(広域で巡礼が困難な)西国三十三所観音霊場に変えるものとして、洛中の観音仏の中から定めたのが起源とされる。 日帰りで巡拝できることから都の人々の間で広まったが、応仁の乱による社寺の焼失・荒廃の後、江戸時代に一旦中興されたが明治時代の廃仏毀釈で再び廃れ、平成で復活と伝えられます。 山城国は律令制の五畿七道の五畿(天皇の住む地域とその周辺の国)の内の1つです。 | ||||||||||
洛陽七観音
京都府 山城国 |
【所在】京都府の旧山城国の洛中の七観音札所
【開創】開創は古く、鎌倉時代といわれる 平安時代の貴族社会では末法思想の広がりによって六観音の信仰が始まり、それが鎌倉時代にかけて七観音信仰へと変化して広まっていったそうです。 この「洛陽七観音霊場」は後に「洛陽三十三観音霊場」に発展したそうです。 山城国は律令制の五畿七道の五畿(天皇の住む地域とその周辺の国)の内の1つです。 | ||||||||||
(山城)南山城三十三観音
京都府 山城国 |
【所在】京都府の旧山城国の南山城地区に創られた観音札所
【開創】江戸時代:貞享年間(1684-1688) 山城国と言えば「宇治茶」、宇治と言えば10円玉の「平等院鳳凰堂」が思い浮かびますが、 京都府南部の山城地域は、中国から渡来したお茶を育て、技術革新に励み「抹茶」「煎茶」「玉露」を生み出した「日本茶のふるさと」と言われます。 | ||||||||||
(山城)田原郷三十三観音
京都府 山城国 |
【所在】京都府の旧山城国の田原郷に創られた観音札所
【開創】江戸時代の元緑以前 山城国の田原郷は現在の京都府綴喜郡宇治田原町で、 10世紀に書かれた「和名抄」によると”「田原郷」は奈良盆地から近江へと抜ける古道沿いにある” とのことです。 また、宇治田原は宇治茶の「日本緑茶発祥の地」と呼ばれます。 | ||||||||||
京都洛西三十三観音
京都府 山城国 |
【所在】京都府の旧山城国の嵐山から長岡京があった洛西地域に創られた観音札所
【開創】室町時代とも江戸時代ともいわれ不明も、昔の奉納額が発見されていると伝えられます。 『洛西三十三観音霊場』『洛西観音霊場』ともよばれます。 山城国は律令制の五畿七道の五畿(天皇の住む地域とその周辺の国)の内の1つです。 | ||||||||||
丹波国三十三観音
京都府 丹波国 |
【所在】京都府と兵庫県にまたがる旧丹波国に創られた観音札所
【開創】江戸時代中期と言われるが、室町時代の永享年間(1429-1441)の記録あり。 律令制以前は丹波国は丹国と言われ、但馬と丹後も丹波国の領域で、現在の京都府の中部と北部、兵庫県の北部と中部の東辺 および大阪府の一部も含んでいたそうです。 現在でも丹波・丹後・但馬を「三丹」、但馬を含まない場合は「両丹」と総称する事があるそうです。 丹波国は古くより京都の北西の出入口に当たる地理的条件から、播磨や大和などと並んで各時代の権力者から重要視され、 江戸時代でも徳川幕府が重要視する藩の一つだったそうです。 丹波国は明治以降は京都府(桑田郡、船井郡、何鹿郡、天田郡)と兵庫県(氷上郡、多紀郡)と一部は大阪府に分かれています。 | ||||||||||
船井郡三十三観音
京都府 丹波国 |
【所在】京都府の旧丹波国の船井郡に創られた観音札所
【開創】室町時代と伝わる 『船井ごおり三十三ヶ所観音』とも呼ばれます。 船井郡は中心が京丹波町で、古来より京都と山陰を結ぶ山陰道および綾部街道へ抜ける街道沿いに宿場町が栄えたそうです。 | ||||||||||
(丹波)旧船井郡新郡三十三観音
京都府 丹波国 |
【所在】京都府の旧丹波国船井郡に創られた観音札所
【開創】不明 現在の京都府船井郡は中心が京丹波町ですが、旧丹波国の旧船井郡は京丹波町に加えて南丹市の一部や亀岡市の一部を含む広い地域で、古来より京都と山陰を結ぶ山陰道および綾部街道へ抜ける街道沿いに宿場町が栄えたそうです。 | ||||||||||
(丹波)船井郡和知西国三十三観音
京都府 丹波国 |
【所在】京都府の旧丹波国船井郡の和知地区に創られた西国33観音の写し札所
【開創】不明ながら江戸時代と思われる。 船井郡の和知町は 現在は京都府船井郡京丹波町となりました。 和知町はほとんどが山林で、清流の鮎は鮎つかみをして、その場で焼いてもらえるそうです。 | ||||||||||
(丹波)川東三十三観音
京都府 丹波国 |
【所在】京都府の旧丹波国亀山藩の川東地区に創られた観音札所
【開創】江戸時代の宝永6年己丑(1907) 亀岡藩は旧丹波国の最南端に位置して山城国や摂津国と接しています。 亀岡藩は旧丹波国の中では人口は最も多く、明智光秀が亀山城と城下町を築いたことが近代亀岡の基礎となったそうです。 「川東」は亀岡藩内の保津川の東岸を川東地区と呼ぶそうです。 | ||||||||||
(丹波)北桑田郡三十三観音
京都府 丹波国 |
【所在】京都府の旧丹波国の北桑田郡に創られた観音札所
【開創】江戸時代の文化七年(1810) 北桑田郡は現京都府あった郡で、丹波国の桑田郡が明治12年に南桑田郡と北桑田郡に分かれて出来ました。 平成18年の南丹市発足と同時に北桑田郡は消滅しました。 南丹市の美山町は「住み続けたいまち・住んでみたいまち」をPRしていて、鮎のつかみ取りを体験できるそうです。 | ||||||||||
天田郡三十三観音
京都府 丹波国 |
【所在】京都の旧丹波国天田郡の付近に創られた観音札所
【開創】江戸中期以前 丹波国の天田郡はほぼ現在の京都府福知山市です。江戸時代には福知山藩がおかれました。 JR大阪駅からローカル線のJR福知山線が通っています。 | ||||||||||
(丹波)何鹿郡三十三観音
京都府 丹波国 |
【所在】京都府の旧丹波国何鹿郡(いかるがぐん)に創られた観音札所
【開創】大正時代以前 丹波国の何鹿郡(いかるがぐん)は、京都府にあった郡で、現在の綾部市です。 「何鹿」は”ナニシカ”と読むのでは無く、”イカルガ”です。奈良県の飛鳥の斑鳩(いかるが)とは字が全く違いますが、何か日本語とは思えない様な音の響きです。 「何鹿」は和名抄の訓注に「伊加留加」とあり、他の木簡には「伊看我」「伊干我」と書いてあるそうです。 音から考えると「つるが(敦賀)」や「するが(駿河)」や「かすが(春日)」や「あすか(飛鳥)」等と何か共通点があるのでしょうか? なお、鵤(いかるが)という小鳥がいるそうです。その小鳥の古名は「いかるが(斑鳩)」だそうです。飛鳥の斑鳩との関連が想像されますが、もし「何鹿」が小鳥の名から来ているのなら、何故、小鳥が鹿の字になるのか判りません。 飛鳥の斑鳩は辞書では"イカルが群居していた地”だそうで、イカルとはアトリ科の鳥で斑、鳩、鵤と書くようです。 また、天孫降臨で知られる河内国の磐船(いわふね)神社は哮峰(いかるがだけ)という地に在るそうです。 イカルガ::何か古代からの言葉でつけられた地名だと思いますが、結局、何故「何鹿」を「いかるが」と読むのか、知ってる人や文献は無い様です。 | ||||||||||
綾部西国三十三観音
京都府 丹波国 |
【所在】京都府の旧丹波国何鹿郡(現在の綾部市)に創られた西国33観音の写し札所
【開創】室町時代末期。 綾部地方が何鹿郡[いかるがぐん]と呼ばれていた開創時の名称は『何鹿郡西国三十三番札所』。また地元の人の通称は『郡三十三観音霊場』と呼ばれていたそうです。 | ||||||||||
丹後国中三十三観音
京都府 丹後国 |
【所在】京都府の旧丹後国に創られた観音札所
【開創】不明 丹後国は京都北部の丹後半島を中心とした地域で、山陰道に属し、丹波国の北部(現在の丹後半島)が分国して作られた。 現在の丹後は宮津市、伊根町、与謝野町、京丹後市(2市2町)からなる日本海に面した地域です。 宮津市には日本三景の一つの有名な天橋立があります。 | ||||||||||
(丹後)與謝郡三十三観音
京都府 丹後国 |
【所在】京都府の旧丹後国の與謝郡に創られた観音札所
【開創】不明 丹後国の與謝郡は現在の京都府与謝郡であり、伊根町と与謝野町 からなります。 俳人の与謝蕪村(生まれは摂津国で、本姓は谷口または谷だそうです)に何かゆかりが有るようで、蕪村の御母堂のお墓が丹後国與謝郡の与謝野町にあるそうです。 もしかすると、与謝蕪村の姓の与謝は母の地元の與謝郡(与謝郡)から取ったものかもしれませんね。 ちなみに、与謝野晶子の与謝野の姓も与謝野町ゆかりで、(ペンネームではなく)与謝野晶子の夫の与謝野鉄幹の実父が与謝野町の僧侶で与謝野というお名前だったからだそうです。 | ||||||||||
加佐郡西国三十三観音
京都府 丹後国 |
【所在】京都府の旧丹後国の加佐郡に創られた西国33観音の写し札所
【開創】 明治時代 旧加佐郡は現在の舞鶴市の全域と福知山市・宮津市の一部。 志高遺跡からは縄文時代前期初頭の土器や銅鐸や銅剣形石剣が発見されている。 浦入遺跡からは丸木舟の遺構が発見されており、隠岐産の黒曜石や北陸産の蛇紋岩製耳飾りなどが見つかっていることから、当時舞鶴に住んでいた人が海を介して遠隔地の人と交流していたことが分かっている。 若狭湾は(弥生時代の初めに、秦の始皇帝の命をうけて不老長寿の薬を探す為との理由で、大勢の渡来人を連れて日本に来たと言われている)徐福の1回目の上陸地としても知られ、天橋立の近くの元伊勢 籠(この)神社の奥宮である真名井神社(まないじんじゃ)にある三つの社紋の一つに、イスラエルの国旗に刻まれて「ダビデ王の紋章」とも言われる「カゴメ紋(六芒星)」が刻まれていたそうです。 | ||||||||||
大阪府 ( 滋賀 京都 兵庫 奈良 和歌山 近畿 目次頁へ ) | |||||||||||
大坂三十三観音
大阪府 摂津国 |
【所在】旧摂津国の主に現大阪市内の寺院で創られた観音札所
【開創】江戸時代の寛文年間(1661-1672)開創、平成8年(1996)復興 大阪府は旧摂津国と旧河内国と旧和泉国の3つの国にまたがり、 摂津国は大阪府の一部(主に大阪市と淀川の北側の市町)と兵庫県の一部(神戸市、西宮市、尼崎市、宝塚市他)からなります。 近松門左衛門の曽根崎心中(元禄十六年=1703年)は、遊女のお初が(客に連れられて)大阪三十三番の観音めぐりをする場面から始まります。 | ||||||||||
河内西国三十三観音
江戸時代の明暦年間(1655~1658)の開創の後は参拝熱の衰退や復活、および明治時代の廃仏毀釈や太平洋戦争による廃寺や復興があり、また時代によっては別地域でも同じ「河内西国三十三観音」の名が存在するなど、変遷を繰り返して、現在は中河内南河内地域の寺院で霊場会が設立されています。
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河内国石川三十三観音
大阪府 河内国 |
【所在】大阪府の旧河内国の石川郡(南河内)に創られた観音札所
【開創】江戸時代の延宝元年(1673) 平安時代に三十三所観音霊場巡礼再興の旅に出られた花山法皇に随行した仏眼上人の河内石川寺は別名では叡福寺とも呼ばれ、聖徳太子の御廟がある事でも知られています。叡福寺は太子建立の四天王寺や、下の太子(大聖勝軍寺)、中の太子(野中寺)とともに太子信仰の霊場として栄えました。 一番札所の仏眼寺は仏眼上人を祀っています。 二番札所の叡福寺は仏眼上人が住職を務めた河内石川寺の事です。 | ||||||||||
摂州能勢郡三十三観音
大阪府 摂津国 |
【所在】現大阪府の摂津国能勢郡に創られた観音札所
【開創】江戸時代の元禄9年(1696)開創、大正4年(1915)再興 能勢郡は摂津国の北東部の地域で、大阪府に属します。 能勢には、地元では「能勢の妙見さん」として知られた能勢妙見山があります。 関東の身延山(山梨県)と同様に日蓮上人のお寺で、お山自体が信仰の対象だそうです。 | ||||||||||
泉州三十三観音
大阪府 和泉国 |
【所在】大阪府の旧和泉国(泉州)に創られた観音札所
【開創】江戸時代の元禄三年(1690) 和泉国は律令制の五畿七道の五畿(天皇の住む地域とその周辺の国)の内の1つです。 | ||||||||||
兵庫県 ( 滋賀 京都 大阪 奈良 和歌山 近畿 目次頁へ ) | |||||||||||
氷上郡西国三十三観音
兵庫県 丹波国 |
【所在】兵庫県の旧丹波国の氷上郡、現在の丹波市(37寺)に創られた西国33観音の写し札所
【開創】 明治23年 旧丹波国の西端に位置した旧氷上郡である現丹波市は兵庫県東部の内陸部に位置し、瀬戸内海と日本海のほぼ中間部の山間に在る。 丹波市内の白亜紀前期(約1億1000万年前)の地層から恐竜の卵殻化石の新種が見つかったと言われている。 また、徳川家光の乳母の春日局は丹波国氷上郡の春日地区に生まれたと言われている。 | ||||||||||
(丹波)多紀郡西国三十三観音
兵庫県 丹波国 |
【所在】兵庫県の旧丹波国の多紀郡(たきぐん)に創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代:延宝2年(1674) 丹波国は太古は但馬国や丹後国も含む大きな国でしたが、律令制の後は3つ(三丹)に分かれ、明治以降は京都府(桑田郡、船井郡、何鹿郡、天田郡)と兵庫県(氷上郡、多紀郡)と一部は大阪府に分かれています。 丹波国の多紀郡は現在は兵庫県丹波篠山市です。 江戸時代には篠山藩がおかれました。関西では丹波篠山の黒大豆は正月料理に欠かせません。 | ||||||||||
(丹波)多紀郡新西国三十三観音
兵庫県 丹波国 |
【所在】兵庫県の旧丹波国多紀郡(たきぐん)に新たに創られた西国33観音の写し札所
【開創】不明 「多紀郡新西国三十三観音」は『多紀郡西国三十三観音』の再編では無く、寺院もご詠歌も全く別です。 開創は不明ですが、もちろん『多紀郡西国三十三観音』より後に出来た事は間違いありません。 | ||||||||||
但馬西国三十三観音
兵庫県 但馬国 |
【所在】兵庫県の北部の旧但馬国に創られた西国33観音の写し札所
【開創】南北朝時代の至徳年間(1384~1387)と伝わる 「但馬(たじま)」というと(昭和生まれなら?)誰でも柳生但馬守(たじまのかみ)宗矩 が思い浮ぶほど知られた国名です。 「天空の城」「日本のマチュピチュ」とも呼ばれ、(雲海に浮かび上がる)竹田城跡は旧但馬国の竹田藩(兵庫県朝来市和田山町竹田)にあります。 (竹田藩・竹田城はフォークソングの「竹田の子守唄」の竹田(京都市南部の竹田地区)とは違います。) | ||||||||||
摂津国三十三観音
大阪府 摂津国 兵庫県 摂津国 |
【所在】大阪府と兵庫県にまたがる旧摂津国の観音札所
【開創】江戸時代の享保年間(1716-1736) 摂津国は律令制の五畿七道の五畿(天皇の住む地域とその周辺の国)の内の1つです。 「西国三十三観音」発祥の話として、 奈良時代の718年に大和の長谷寺の徳道上人が病にかかり生死をさまよった時に夢の中で閻魔大王に出会い、三十三所の観音霊場があることを人々に知らせるようにと起請文と三十三の宝印を授けられたそうです。 しかし、当時の人々はこの話を余り信用しなかった為、上人はやむなく授かった宝印を摂津中山寺の石棺に納められたと伝えられています。 その中山寺が1番札所の「摂津国三十三観音」です。 | ||||||||||
摂北三十三観音
兵庫県 摂津国 |
【所在】旧摂津国の北部地域に創られた観音札所で、札所は大阪府と兵庫県に点在します。
【開創】江戸時代の貞享2年(1685) 貞享2年に11番札所の久安寺の円海和尚が開かれたそうです。 「西国三十三観音」発祥の話として、 奈良時代の718年に大和の長谷寺の徳道上人が病にかかり生死をさまよった時に夢の中で閻魔大王に出会い、三十三所の観音霊場があることを人々に知らせるようにと起請文と三十三の宝印を授けられたそうです。 しかし、当時の人々はこの話を余り信用しなかった為、上人はやむなく授かった宝印を摂津中山寺の石棺に納められたと伝えられています。 その中山寺が1番札所の「摂北三十三観音」です。 | ||||||||||
摂津国有馬郡西国三十三観音
兵庫県 摂津国 |
【所在】兵庫県東部の旧摂津国の有馬郡に創られた西国33観音の写し札所
【開創】開創は不明なれど、大正元年(1912)に復興の記録あり 有馬郡の有馬温泉は「日本三古泉」(有馬、道後、白浜)と呼ばれ、日本書紀や古事記などにも記載された古くから存在する温泉です。 また現在は、「日本三名泉」(有馬、草津、下呂)にも選ばれています。 また、27番札所の欣勝寺は、このお寺に落ちてきた雷を住職が懲らしめたという昔話から、地名の「桑原」が雷除けの呪文になった と言われています。 | ||||||||||
摂州太田庄奥三十三観音
兵庫県 摂津国 |
【所在】摂津国の川辺郡に創られた観音札所
【開創】江戸時代の元禄7年(1694) 摂津国の島下郡は太田郡とも呼ばれていた様ですので、「摂州太田庄奥三十三観音」は島下郡に存在するかと思っていましたが、各寺院は全て川辺郡に存在していました。 | ||||||||||
川辺西国三十三観音
兵庫県 摂津国 |
【所在】兵庫県の旧摂津国川辺郡(現在の伊丹市、川西市他)に創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代の元禄年間(1688-1704) 摂津国は律令制の五畿七道の五畿(天皇の住む地域とその周辺の国)の内の1つです。 「西国三十三観音」発祥の話として、 奈良時代の718年に大和の長谷寺の徳道上人が病にかかり生死をさまよった時に夢の中で閻魔大王に出会い、三十三所の観音霊場があることを人々に知らせるようにと起請文と三十三の宝印を授けられたそうです。 しかし、当時の人々はこの話を余り信用しなかった為、上人はやむなく授かった宝印を摂津中山寺の石棺に納められたと伝えられています。 その中山寺が1番札所の「川辺西国三十三観音」です。 | ||||||||||
淡路西国三十三観音
兵庫県 淡路国 |
【所在】兵庫県の旧淡路国の淡路島に創られた西国33観音の写し札所
【開創】室町時代の文明年間(1469~1486年)と伝えられている。 札所の開創は古く、室町時代の文明年間に淡路守護の細川氏によって始められたと伝えられている。 「古事記」「日本書紀」の国生み神話によると、淡路島は"世界で最初に生まれた島。我が国の始まりの地"とされています。 (ちなみに、淡路島の次に生んだのが四国。三番目に生んだのが隠岐。そして九州、壱岐、対馬、佐渡と生み、最後に本州を生みました。この八つの島を大八島国といいます。) | ||||||||||
播磨西国三十三観音
兵庫県 播磨国 |
【所在】兵庫県の旧播磨国に創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代初期の寛文年間(1661~1669年)、南室和尚による。 南室和尚により定められたそうです。 播磨国は畿内に隣接するため古くから文明が開け,旧石器時代の遺跡もあり,縄文,弥生遺跡も広く分布しています。 また、畿内に隣接する地理的条件から、各時代の権力者から重要視される国の一つだったそうです。 | ||||||||||
明石西国三十三観音
兵庫県 播磨国 |
【所在】兵庫県の旧播磨国の明石郡に創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代の貞享2年(1685) 日本標準時の町として知られる明石です。 | ||||||||||
赤穂坂内三十三観音
兵庫県 播磨国 |
【所在】兵庫県の旧播磨国の赤穂郡に創られた観音札所
【開創】江戸時代の安永6年(1777) 『播州赤穂坂内西国三十三観音』ともいわれます。 『忠臣蔵』『赤穂浪士』『塩』でも有名な播州赤穂です。 | ||||||||||
福原西国三十三観音
兵庫県 播磨国 |
【所在】兵庫県の旧播磨国の福原京がおかれた地域(神戸市)に創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代の宝永7年(1710)以前 400年も続いた平安京を平清盛が福原遷都を強行し、半年で諦め京都に戻したと言われる「福原京」です。 | ||||||||||
(播磨)印南郡三十三観音
兵庫県 播磨国 |
【所在】兵庫県の旧播磨国の印南郡(いなみぐん)に創られた観音札所
【開創】江戸時代:正徳二年壬申 播磨国は兵庫県の瀬戸内海に面した地域で、加古川の河口左岸が加古郡、右岸が印南郡となるそうです。 播磨国の印南郡は現在の高砂市の大部分と姫路市の一部および加古川市の一部です。 | ||||||||||
(播磨)加西西国三十三観音
兵庫県 播磨国 |
【所在】兵庫県の旧播磨国の加西(かさい)市付近に創られた西国33観音の写し札所
【開創】開創は不明、再興は大正14年 播磨国は兵庫県の瀬戸内海に面した地域です。 奈良時代に各国で作成された『風土記』の内で現存するのは常陸国、播磨国、出雲国、豊後国、肥前国の5か国のみです。 その風土記の中でも『播磨国風土記』は最も早く完成したそうです。 この日本最古の地誌である『播磨国風土記』には、加西市も賀毛郡として登場し、ゆかりの地が多数記述されているそうです。 | ||||||||||
(播磨)美嚢郡西国三十三観音
兵庫県 播磨国 |
【所在】兵庫県の旧播磨国の美嚢郡(みのうぐん)に創られた西国33観音の写し札所
【開創】江戸時代:宝永四年(1707)。再興は慶応二年(1866) 播磨国にあった美嚢郡は現在の三木市および神戸市北区の一部(淡河町各町)です。 『播磨国風土記』によれば「水流(みながれ)が大変美しい事から、天皇がこの地を「みなぎ」と名付けられた」とも言われ、 近世までは「みなぎ」と呼ばれたそうで、三木郡と称することもあるそうです。 | ||||||||||
(播磨)姫路三十三観音
兵庫県 播磨国 |
【所在】兵庫県の旧播磨国の姫路藩に創られた観音札所
【開創】江戸時代:正徳三年(1713) 姫路市域はもともと播磨の守護大名赤松氏の地盤でしたが、その後姫路城は黒田氏や池田氏ら外様大名や譜代大名の居城となりました。 「白鷺城」とも呼ばれる姫路城は慶長14年(1609年)に池田輝政が城主の時に建築されたそうです。 姫路城は平成5年に奈良の法隆寺とともに日本初の世界文化遺産となったそうです。 なお、吉川英治の「宮本武蔵」によると姫路城の天守閣には、沢庵和尚により「宮本武蔵が幽閉された部屋」があるはずです。 | ||||||||||
(播磨)揖保郡三十三観音
兵庫県 播磨国 |
【所在】兵庫県の旧播磨国の揖保郡(いぼぐん)に創られた観音札所
【開創】江戸時代:文化年間(1804-1817) 播磨国は兵庫県の瀬戸内海に面した地域です。揖保郡は昔は「いいほのこおり」「いぼのこおり」と呼ばれたそうです。 揖保郡は現在のたつの市の大部分と姫路市の一部と相生市の一部です。 播州「斑鳩寺」というお寺が有り、聖徳太子はこの地を「鵤莊」(いかるがのしょう)と名付けられ、一つの伽藍を建てられたそうです。これが播州斑鳩寺の始まりと言われているそうです。(丹波国の何鹿郡[いかるがぐん]と何か関係があるでしょうか?) | ||||||||||
(播磨)揖保郡別三十三観音
兵庫県 播磨国 |
【所在】兵庫県の旧播磨国の揖保郡(いぼぐん)に創られたもう一つの観音札所
【開創】不明 『揖保郡三十三観音』とは別の寺院があり、札順も全く異りますので掲載します。 播磨国の 揖保郡は現在のたつの市の大部分と姫路市の一部と相生市の一部です。 |