西国三十三観音霊場の巡路の謎 |
西国三十三観音霊場の現在の札所順路 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
西国三十三観音の現在の順路は、 紀伊半島の南端の熊野の那智山からスタートして和歌山県、奈良県、大阪府、京都府、兵庫県、滋賀県、と近畿地方を一周して岐阜県で終わるコースです。 近畿の人も関東の人も日本中の人がこの順路でお参りされています。
( 1番札所:那智 青岸渡寺 ~ 33番札所:岐阜 谷汲山 )
しかし私は、このコースをよくよく眺めていますと、どうも関東の人が参拝するのに都合が良いコースのように思えて仕方がありません。
奈良時代の718年に大和長谷寺の徳道上人が三十三観音の巡拝を呼びかけた時の順路は
1番札所はもちろん奈良の長谷寺(現8番)で、現在1番の紀州那智の青岸渡寺は6番目、現在最後の谷汲山は18番目、そして最後の33番目は(奈良に近い)京都宇治の三室戸寺(現在10番)だったそうです。
その約270年後(計算すると平安時代中期の998年)に「西国札所中興の祖」と呼ばれる花山法王が紀州国の那智山で千日修行等をされた折に熊野権現が現れて三十三箇所霊場を再興するようにとの神託を受け、花山法王が(播磨書写山の性空上人と河内石川寺の仏眼上人を先達として)巡礼を復興したといわれています。
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花山法王の後に歴史資料に三十三観音巡礼が表れるのは、 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1090年 【行尊】上人 近江:園城寺(三井寺)の僧・行尊(1055-1135)による「観音霊場三十三所巡礼記」が最初で、この時の巡礼は1番札所は長谷寺であり、33番札所は三室戸寺だった。 (徳道上人発願時の順路とほぼ同じと思われます)
( 1番札所:大和 長谷寺 ~ 33番札所:宇治 三室戸寺 )
(なお、栂尾山の高山寺に伝わる1211年の「観音丗三所日記」には行尊上人と同じ順路が伝えられているそうです。)
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1161年 【覚忠】上人 近江:園城寺(三井寺)の僧・覚忠(1118-1177)の巡礼「寺門高僧記」では、熊野那智山を1番札所とするようになり、33番札所はやはり三室戸寺だった。
( 1番札所:那智 青岸渡寺 ~ 33番札所:宇治 三室戸寺 )
(なお研究者によると、札所の寺を詳細に検討すると創立年代が事実とあわないという点から,花山法王や行尊の巡礼は疑問で、覚忠の巡礼は確実で信用できるとする意見があります。) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1番札所が熊野那智山に変っていった理由は? | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「蟻の熊野詣」と言われる程に人が熊野街道を行列して参拝した平安時代以降の貴族の熊野三山の信仰に有るようです。
「蟻の熊野詣」で熊野にお参りすれば、そこは『西国三十三観音』の1番札所であり、巡礼が終わった33番札所は都に近い宇治の三室戸寺である事は京都の貴族には丁度良い順路だったと思われます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
33番札所が何時の時代に宇治の三室戸寺から岐阜:谷汲山に変ったのかは (ご詠歌コムの調査範囲では) 不明です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1192年の鎌倉幕府の源頼朝?
室町時代の足利将軍? 江戸時代の徳川将軍? 関東方面からの参拝者が非常に多く、大量の人が巡るコースが自然に標準となっていった? その他の理由? |