西国三十三観音霊場の巡路の謎


西国三十三観音霊場の現在の札所順路

西国三十三観音の現在の順路は、 紀伊半島の南端の熊野の那智山からスタートして和歌山県、奈良県、大阪府、京都府、兵庫県、滋賀県、と近畿地方を一周して岐阜県で終わるコースです。

近畿の人も関東の人も日本中の人がこの順路でお参りされています。

西国三十三観音霊場の現在の札所順路
( 1番札所:那智 青岸渡寺 ~ 33番札所:岐阜 谷汲山 )
札所No地域寺院名
 1紀伊那智山 青岸渡寺
 2紀伊紀三井寺
 3紀伊粉河寺
 4和泉槙尾山 施福寺
 5河内葛井寺
 6大和壺阪寺
 7大和岡寺
 8大和長谷寺
 9奈良興福寺 南円堂
10京都(宇治)三室戸寺
11京都(伏見)上醍醐寺
12近江岩間寺
13近江石山寺
14近江三井寺(園城寺)
15京都今熊野観音
16京都清水寺
17京都六波羅蜜寺
18京都六角堂
19京都行願寺 革堂
20京都(西)善峯寺
21丹波穴太寺
22攝津総持寺
23攝津勝尾寺
24攝津中山寺
25播磨清水寺
26播磨一乗寺
27播磨書写山 圓教寺
28丹後成相寺
29丹後松尾寺
30近江竹生島 宝厳寺
31近江長命寺
32近江観音正寺
33岐阜谷汲山 華厳寺

しかし私は、このコースをよくよく眺めていますと、どうも関東の人が参拝するのに都合が良いコースのように思えて仕方がありません

例えば江戸時代に大変流行ったといわれる『伊勢参り』に行ったと考えますと、関東方面から伊勢参りの後にもう少し足を伸ばして『熊野詣で』をすれば、そこは『西国三十三観音』の一番札所であり、『西国観音』を巡拝し終われば、そこはもう岐阜県ですので、無駄なく帰途につける事になります。

誰か昔に関東にいた権力者が関東の方から参拝し易い様に西国三十三観音の順路を変えたのではないかと想像してしまいます。


奈良時代の718年に大和長谷寺の徳道上人が三十三観音の巡拝を呼びかけた時の順路は 1番札所はもちろん奈良の長谷寺(現8番)で、現在1番の紀州那智の青岸渡寺は6番目、現在最後の谷汲山は18番目、そして最後の33番目は(奈良に近い)京都宇治の三室戸寺(現在10番)だったそうです。

即ち大和の長谷寺から出発して奈良に帰って来るコースでした。


その約270年後(計算すると平安時代中期の998年)に「西国札所中興の祖」と呼ばれる花山法王が紀州国の那智山で千日修行等をされた折に熊野権現が現れて三十三箇所霊場を再興するようにとの神託を受け、花山法王が(播磨書写山の性空上人と河内石川寺の仏眼上人を先達として)巡礼を復興したといわれています。

千日修行を終えた花山法皇は、西国三十三観音霊場巡礼の旅に出られて各地で歌を詠まれました。 それが御詠歌のはじまりと言われ、那智山青岸渡寺は第一番札所となったと伝えられていますが、 私は長い間、この花山法王の歩まれたコースが現在の参拝順路だろうと思い込んでいました。



花山法王の後に歴史資料に三十三観音巡礼が表れるのは、

1090年 【行尊】上人

近江:園城寺(三井寺)の僧・行尊(1055-1135)による「観音霊場三十三所巡礼記」が最初で、この時の巡礼は1番札所は長谷寺であり、33番札所は三室戸寺だった。 (徳道上人発願時の順路とほぼ同じと思われます)

【行尊】上人の参拝順路
( 1番札所:大和 長谷寺 ~ 33番札所:宇治 三室戸寺 )
札所No地域寺院名現札所No
 1大和長谷寺( 8)
 2大和岡寺( 7)
 3大和壺阪寺( 6)
 4紀伊粉河寺( 3)
 5紀伊紀三井寺( 2)
 6紀伊那智山 青岸渡寺( 1)
 7和泉槙尾山 施福寺( 4)
 8河内葛井寺( 5)
 9攝津総持寺(22)
10攝津勝尾寺(23)
11攝津中山寺(24)
12播磨清水寺(25)
13播磨一乗寺(26)
14播磨書写山 圓教寺(27)
15丹後成相寺(28)
16丹後松尾寺(29)
17近江竹生島 宝厳寺(30)
18岐阜谷汲山 華厳寺(33)
19近江観音正寺(32)
20近江長命寺(31)
21近江三井寺(園城寺)(14)
22近江石山寺(13)
23近江岩間寺(12)
24京都(伏見)上醍醐寺(11)
25京都今熊野観音(15)
26京都六波羅蜜寺(17)
27京都清水寺(16)
28京都六角堂(18)
29京都行願寺 革堂(19)
30京都(西)善峯寺(20)
31丹波穴太寺(21)
32奈良興福寺 南円堂( 9)
33京都(宇治)三室戸寺(10)

(なお、栂尾山の高山寺に伝わる1211年の「観音丗三所日記」には行尊上人と同じ順路が伝えられているそうです。)



1161年 【覚忠】上人

近江:園城寺(三井寺)の僧・覚忠(1118-1177)の巡礼「寺門高僧記」では、熊野那智山を1番札所とするようになり、33番札所はやはり三室戸寺だった。

【覚忠】上人の参拝順路
( 1番札所:那智 青岸渡寺 ~ 33番札所:宇治 三室戸寺 )
参拝順路地域寺院名現在の札所No
 1紀伊那智山 青岸渡寺( 1)
 2紀伊紀三井寺( 2)
 3紀伊粉河寺( 3)
 4大和壺阪寺( 6)
 5大和岡寺( 7)
 6大和長谷寺( 8)
 7奈良興福寺 南円堂( 9)
 8和泉槙尾山 施福寺( 4)
 9河内葛井寺( 5)
10攝津総持寺(22)
11攝津勝尾寺(23)
12攝津中山寺(24)
13播磨清水寺(25)
14播磨一乗寺(26)
15播磨書写山 圓教寺(27)
16丹後成相寺(28)
17丹後松尾寺(29)
18近江竹生島 宝厳寺(30)
19岐阜谷汲山 華厳寺(33)
20近江観音正寺(32)
21近江長命寺(31)
22近江三井寺(園城寺)(14)
23近江石山寺(13)
24近江岩間寺(12)
25京都(伏見)上醍醐寺(11)
26京都今熊野観音(15)
27京都六波羅蜜寺(17)
28京都清水寺(16)
29京都六角堂(18)
30京都行願寺 革堂(19)
31京都(西)善峯寺(20)
32丹波穴太寺(21)
33京都(宇治)三室戸寺(10)

(なお研究者によると、札所の寺を詳細に検討すると創立年代が事実とあわないという点から,花山法王や行尊の巡礼は疑問で、覚忠の巡礼は確実で信用できるとする意見があります。)
1番札所が熊野那智山に変っていった理由は?
「蟻の熊野詣」と言われる程に人が熊野街道を行列して参拝した平安時代以降の貴族の熊野三山の信仰に有るようです。
「蟻の熊野詣」で熊野にお参りすれば、そこは『西国三十三観音』の1番札所であり、巡礼が終わった33番札所は都に近い宇治の三室戸寺である事は京都の貴族には丁度良い順路だったと思われます。
33番札所が何時の時代に宇治の三室戸寺から岐阜:谷汲山に変ったのかは (ご詠歌.comの調査範囲では) 不明です。
1192年の鎌倉幕府の源頼朝?
室町時代の足利将軍?
江戸時代の徳川将軍?
関東方面からの参拝者が非常に多く、大量の人が巡るコースが自然に標準となっていった?
その他の理由?


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